Stay Together

Green (@ribbon_bear) が毎週好きな音楽ネタを語ります! Since 2011

ロッド・モーゲンスタイン 「彼のサウンドは他の誰とも違っていた、それがスティーヴ・モーズだ」

Winger のロッド教授がメディアのインタビューに応えました。5月始めに公開された Part 1 では、伝説のバンド Dixie Dregs の結成とデビューまでのお話が聞けます。70年代にレコードデビューするには正に「ちょうど良いときに良い場所に居合わせた」ことがカギとなったようです。インタビューを和訳しました。

 

 

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いつドラムを始めたんだい?

10歳のときだ、日曜の夜に両親が「エド・サリバン・ショー」を観ていて、私と妹もテレビの前にいた。すると「イギリス、ロンドンから来た The Beatles です!」エドが紹介したんだ。ドラマーに目が釘付けになって、両親に言ったのさ、「大きくなったらあれをやりたい」とね。

3年後に友達の家に遊びにいったとき、「これ聴いてみろよ!」と言われたのが The Jimi Hendrix Experience のアルバムだった。最初の1曲で圧倒されたよ!それでミッチ・ミッチェルがお気に入りのドラマーの1人になったのさ。

10代の後半にはジャズに魅了された。高校生の頃に(17~18歳)マイルス・デイビスを聴いて、フュージョンの大祖父みたいだったよね。そしてマイルスとプレイしているドラマー、トニー・ウィリアムスがお気に入りのドラマーになった。

それから Mahavishnu Orchestra のビリー・コブハム。あのバンドは他のどのバンドよりも私の世界観を一変させたよ、なぜか私の内面の奥深くに届いたんだ。これはめったにないことだ。そしてアルバム『The Inner Mounting Flame』 (1971年 ジョン・マクラフリン参加)によって、変拍子の世界に導かれた。

スティーヴ・モーズとの出会いは?

私のキャリアの始まりというのは、素晴らしいジャズ課程があるマイアミ大学に行くよう、そこの卒業生の教師に勧められたところからなんだ。私はドラムが上手かったけれど、ピアノも少々弾いていてね、ジャズの即興クラスでピアノを弾いていた。

そのグループにはギタリストが1人いて、彼は (ジャズプレイヤーらしく)Gibson の大きなホロウボディを弾く替わりに、4つのピックアップを載せた Fenderテレキャスターを弾いていた。Gibson のテールピースとストラトのネックを付けていて、ブロンドの長髪だった。彼のサウンドは他の誰とも違っていた、それがスティーヴ・モーズだ。

(訳者注:それどんなギター?と思ったら開始 3:01のところに写真が出ます。どんなテレキャス!)

教師はいつも彼に口出していたよ、彼はジャズ・ギタリストらしいサウンドじゃなかったから。彼らはスティーヴをジャズ・プレイヤーのサウンドにしたかったのさ。クラス最初の数週間、私は彼に感心していた。

ある日、彼がやってきて「君がドラムを叩くって聞いたけど?」と訊くので、そうだと答えると、「バンドのドラマーがサーフィンで腕を痛めたから、代役を探しているけどどうだい?」と言うので、了解したんだ。

そしてリハーサルしているバンドのところに行くと、Mahavishnu Orchestra や The Allman Brothers BandFrank Zappa & The Mothers Of Invention のカバーや、スティーヴ・モーズのオリジナルソングを弾いているバンドがいたのさ。自分がここに足を踏み入れたことが信じられなかったよ。死んで天国にきたのか?とね。(笑)

そして数週間して、元のドラマーの腕が回復したんだけれど、バンドのクレイジー変拍子やらポリリズムのプレイは彼には合わないとのことで、彼が辞めて私が正式にドラマーになったんだ。

そして君たちは75年にセルフ・プロデュースのアルバムをリリースしたんだよね?

75年に大学のキャンパスに素晴らしいコンサートホールが完成して、当時の最先端だった24トラックの2インチテープリールシステムの録音機器が導入された。私たちはそれで後にデモアルバムとなった曲を録音したんだ。10曲入りの『The Great Spectacular』だよ。

数か月後に私たちは大学を卒業して、スティーヴ・モーズとベースのアンディ・ウエストと私でNYのレコードレーベルの扉を叩いて周ったのさ。レコードレーベルの名前と住所を調べて、電話もせず、アポもとらずに、「私たちはバンドです。レコード契約したいので、このデモを聴いてください」とね。

殆どはお断りの手紙を送るための住所を訊いて扉を閉めた。彼らには理解できなかったのさ、ボーカルのないバンドで、ロックバンドというが、そんなので音楽界へ入れる訳がないと。私たちはおかげで強くなったよ、彼らがいかに間違っているのかを世界に証明したかったのさ。生き残るだけでなく、突破口を開いて、レーベル契約を取って、私たちの業績を残そうとね。

私たちが最初のレコード契約を得たのは、南部の州をツアーしていたときだ。テネシーナッシュビルにある Exit/In というクラブで演奏していると、バーに有名なミュージシャンが座っているのに気付いた。

そこでステージ上でバンドミーティングをして、あそこに座ってる人が見えるだろ?一発ぶちかますぞ、って全員で頷いたのさ。ライブを終えるとそのミュージシャンが連れと一緒に私たちのところにやってきた。そのミュージシャンとは The Allman Brothers Band のピアニスト、チャック・ラベルだった。彼の連れは バンドのプロダクション・マネージャーのツウィグス・リンドンだった。

彼らは絶賛してくれた。「君たちは何者なんだ?俺たちはツアーのオフ日でここにカントリーバンドでも聴きにきたというのに、圧倒されたよ、ロック・フュージョン・カントリー・クラシック、君らが何と名乗ろうと。君らのレコードはどこで買えるんだい?

 

それで私たちにはレコード契約がないと言うと、「明日の朝一番に契約を届けるよ、カプリコン・レコードの社長フィル・ワルデンに電話しよう。君らがジョージアのマコン(カプリコン・レコードの所在地)でプレイする日を確定しよう」と言われた。

2ヵ月ほど後に、私たちはそこでプレイしたよ。 The Allman Brothers Band はツアー中ではなかったので、そこにはチャック・ラベルも来てプレイしたんだ。その夜、ワルデン社長のところに行くと、レーベルの幹部にツウィグス・リンドンと皆が揃っていた。皆が絶賛していたよ。

それは正にちょうど良いときに良い場所に居合わせるということだね。

当時の音楽業界はそういう仕組みだった。(笑)

(Part 2(未公開)に続く)

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 ロッド教授のキャリアについて詳しくはこちらの過去記事をどうぞ。

staytogether.hateblo.jp

 

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