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リッチー・コッツェン part1 レコード会社との確執とPoison加入

Dean Delray's LET THERE BE TALK というPodcastリッチー・コッツェンが出演しました。このPodcastアメリカのコメディアンで元バンドマンのディーン・デルレイさんの番組で、月7回くらいのペース、うれしいことに無料で配信しています。

約1時間半ほどの番組では、HR/HM界の著名人などを迎えて、ノンストップのトークが炸裂。最近ではエリック・マーティンビリー・シーンが参加したエピソードもありますので是非聞いてみてください。

2月24日に公開されたエピソード81では、リッチーが「これまでで俺の一番ディープなインタビューだと思う」とツイートしています。

確かに、キャリア初期の葛藤、音楽ビジネスに関して、Poison時代の暴露話(これがスゴイ!)などなど、今だから話せる!みたいな内容です。長いトークでFワード満載のため、一部編集しましたが、リッチーファンに楽しんでもらえたらうれしいです。長文のため2週に分けました。

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ディーン(D): リッチー、久しぶりだなぁ。

リッチー(R): ああ。初対面はたしか、マイク・バーニー(シュラプネル・レコード設立者)のオフィスで会ったよね。俺はペンシルベニアから出てきたばっかの18歳のガキだった。

D: 覚えてるか?AC/DCのトリビュートやったよな。ポール・ギルバートはドラム叩くんだぜ。俺とレーサーXのブルース・ブイエとお前と3人が同じ誕生日でさ。

R: そうだったな。思い出した。(笑)

D: それから20年後、日本でローリング・ストーンズの公演があったとき、東京ドームだよな。そこでお前と再会するんだから驚きだったぜ!お前がオープニングアクトだって全然知らなかったよ。

R: あの再会は驚いたな。ストーンズのオープニングの話は1回目が終わるまで誰にも言わなかったんだ。ジンクスがあるからさ。すごくデリケートな話で、最後まで話が変わらない保障はなかったし。

D: 東京、大阪ドームとまわって

R: 東京でもう一回、あと札幌ドームにも行ったよな。

D: 東京ドームって8万人くらい入るんだっけ?あれが一番デカイ規模のショウだった?

R: 俺にとってはそうだな。俺の彼女のジュリアはベース・プレイヤー(ブラジリアン・カントリー・ミュージックで、例えるとディクシー・チックスアメリカの女性カントリー・バンド))なんだけど、ブラジルで人気があって、あっちでは2百万人規模のショウができるけど。彼女は17歳からバンドやってたけど、最近バンドを辞めて、アメリカに移ってきたんだ。

とにかく、俺はショウの規模なんかはどうでもいい。ただ良いショウをやりたいだけ。バンドの音を聞いてそれに応えた演奏をしたい。

D: そうだな。3ピースのバンド、ヘンドリクスとかクリームとか、ニルバーナもだけど、プレイヤーがお互いのプレイでクリエイトしてるのがいいよな。

R: ああ。俺は売れ線のアーティストじゃないから、決まった型をやる必要はない。長いツアーで正気を保つためにも、ソロ・パートの自由度が必要なんだ。俺はジャズ・マンじゃないけど、即興の要素が欲しい。

D: ロックの世界に目覚めたのはKISSだったんだろ?

R: ああ。あの派手なステージは子供にとって衝撃だよ。KISSのポスターを部屋に貼ったら、(ジーンが口から血をたらしてる画)親に「そんなの貼って怖くないの?」って言われたよ。(笑)その後はブラック・サバスアイアン・メイデンとか。悪魔崇拝してる子供に見えたかも。(笑)

D: その頃から、マイク・バーニーの所に行くまで、ギターは誰の影響を受けた?イングヴェイ

R: いや、ヴァン・ヘイレンさ。家には両親の好きなクラシック・ロックとR&Bがいつもながれてた。俺にはクラシックな要素は何もない。ピアノは全然練習しなくて、親に安物ギターを買ってもらって教室に通い始めた。12歳くらいには俺が真剣にギターに取り組んでるのを見て、親は俺にレスポールを買おうとしたんだ。そしたら店員に説得されてヤマハのSG2000を買った。

D: それってデイヴ・メニケッティ(Y&T)モデル?いいギターだよな!

R: サンタナが使ってるやつさ。それが長い間俺のメインギターになったよ。その時のは赤で、あと白いのを今でも持ってる。

D: ところで44歳にしちゃぁ、お前って体型保ってるよな。何かしてる?

R: いや特に何も。でも一時的にワークアウトの鬼と化した時期があったよ。あれはMR.BIGのアルバム"Actual Size"を作ってる時で、俺の家のスタジオで作ったんだ。エリックと俺は夕方5時くらいから仕事始めてた。で、朝の5時に入れるコーヒーにカルーアを入れてさ、1日中酒を飲んでた。それで、日本へのプレス・ツアーがあって、飛行機を降りたとたんに俺の腹をつかまれて、日本のプロモーター(ウドーさんじゃないけど、そのスタッフ)に「リッチーさん、太りましたねー」って言われた。(笑)

それでヤバイと思って炭水化物を抜いたり、取りつかれたようにジムに通って2時間運動したりさ。ダイエットはやめたし、酒は今もよく飲むけど、タバコはやめた。でもあのとき頑張って良かったよ。

D: この間はゲストにビリー・シーンが来てくれたけど、ビリーは60歳だってのに、ダイナマイト・ボディだよな。聞いたら、炭水化物は食べないとか、野菜と肉の健全な食のバランスとか、そういうダイエットをもう一生やってくらしいぜ。

R: ああ、ビリーはサンドイッチでも上のパンは食べないからさ。俺はそういうことは全然考えないけど、まぁ、俺はギター・プレイヤーであってモデルじゃないからさ。でも俺の指が動かなくなったら、声が出なくなったらって恐怖はあるよ。

D: それで、お前がシュラプネル・レコードへやってきたところへ話を戻そう。Poisonに入ったよな。

R: 俺は89年にレコード・デビューしたんだけど、クレイジーな速弾きのレコードでさ、それが終わって、普通のロック・アルバムをやりたいと思ったんだ。ボーカルやバンドのいるやつ。マイクが俺が歌うべきだって言うから、2枚目のアルバムは俺が初めてボーカルをとった。91年ごろかな、それからLAに移り住んで、インタースコープと契約した。レコード会社が予算を組んで次のアルバムを作ってくれるっていうんで凄く興奮したよ。

俺はダリル・ホールみたいな白人R&Bのアルバムをやりたかった。ところがレコード会社は俺のことをメタル野郎だって思ってた。俺はメタルじゃなくて、ドン・ヘンリーみたいなレコードを作りたかった。議論になったよ。

レコード会社は「そんなことをやらせるために契約したんじゃない」って言うんだ。そんなの俺には正気の沙汰とは思えなかった。あいつらは俺が興味のない音楽をやらせたかったんだ。俺の書いた曲をあいつらは聴いてもいない!結局俺はあいつらに干された。

でも俺は当時雑誌Guitar Worldの表紙とかになってたから、Poisonから声がかかったんだ。俺は1年くらいかけて曲を書いたり、自分の作りたいアルバムに向けて準備してたから、アルバムが中止になってレーベルに対して怒り心頭だったのさ。契約解除してくれ、って言い渡してた。レーベルの方は俺はまだ21歳で自分の音楽性も分かってないと思ってた。とりあえずPoisonに行って、1~2年頭を冷やして来い、そしたら戻って、もう一度ソロ・アルバムのことは考えようってね。

D: あいつらのやり口は汚いんだ。俺のところで言うこと聞かないなら、どこのレーベルにも行かせない。仕事はないぞってな。

R: とにかく、俺はPoisonに入った。そこで作ったアルバムに関してはとても満足している。でも最初はとまどったよ。「このバンドのファンか?どの曲が好きか?」とか聞かれるんだけど、俺は実のところPoisonの音楽なんてやりたくなくて、もっと複雑な音楽に興味があった。

D: だってお前のテクニカルなプレイなんてC.C.(Poison ギタリスト この時点ではリッチーの前任者)は足元にも及ばないだろ!抑えて弾くのって難しくないか?

R: リハーサル・ルームに入って彼らは俺のサウンドを聞こうとしてた。でも俺はまず聞かせてもらうことにして、ギターを手にとらなかった。ただ彼らのコード進行をたどって、ここでバースで、リフでって感じで彼らのやってることを理解した。

演奏に参加したときは酷かったよ。(俺のサウンドに必要な)マーシャルからは煙が出て使えなくて、仕方ないから変なアンプから変なサウンド出しながら演奏したんだけど、曲のブリッジを覚えてなくて演奏を止めてしまった。そこで、「何かお前の書いた曲ないか?」って聞かれたから"Stand"のバースとコーラスをやったんだ。気に入られたよ。あと"Until You Suffer Some (Fire and Ice)"。この2曲はシングルになった。たしかこのアルバムでは7曲くらい俺が書いて、あとは共作だったかな。

でも面白いのは、アルバムが出るとこれらの曲はPoisonの曲でPoisonのサウンドになった。ギャラは4人で分けたし。ペンシルバニアから出てきたガキにとっては凄くクールだったよ。

D: お前は凄いって!チャンスを掴んで、結局は自分の曲をレコードにしたんだぜ!最高だ!バンに乗ってペンシルバニアから出てきたガキが80年代のハリウッドでやってやったんだ!ツアーはどうだった?ギャラは4等分か?

R: いや。でも俺は理解したよ。ソングライティングについては4等分だけど、C.C.の取り分もあるんだ。彼はバンドに貢献した人だからってことさ。まー、でもソングライティングについては平等だった。

D: 1991年だよな。音楽シーンが変わろうとしてたのは感じてた?

R: いや。あの時の俺たちには何が起きてるのか、全く分からなかった。誤解してる人がいるから説明したいんだけど、当時PoisonはPeople Magazineで最も派手なツアーバンドとか騒がれてて、とにかくビッグなバンドだった。俺が参加したのが91年で辞める93年までにシーンがすっかり変わったんだ。他のバンドはどんどん活動を止めていった。

俺の参加したアルバムが出て、シングルの"Stand"は全米4位までいった。レコードはゴールドになったし。この曲はMTVでかかりまくってた。でもどんな理由からか、キャピタル・レコードは次のシングル"Until You Suffer Some (Fire and Ice)"を出すのにたっぷり間を空けたんだ。その上、ビデオも酷いものだった。"Stand"はビデオもよかっただろ?(ニルバーナを撮った監督による作品)でも間を空けすぎて時期を逃し、最悪なビデオだったもんだから、バン!アルバム・キャンペーンはもう終わりさ。俺たちはツアー中だった。全て順調だったのに。

D: ツアーでは、C.C.と代わったことに関してファンの反応はどうだった?

R: 問題なかった。あのバンドが少し方向転換をしたのはいいタイミングだし、方向性も良かったって皆が感じてたと思う。"Stand"はヒットしたし。でも、あのFire and Iceが出る時には、シーン全体の空気というか、それが変わったんだよ。

D: ツアーに出て3ヶ月で、全部変わったみたいなもんだよな。お前ってドラマーの女とデキてたろ?

R: ああ。そのせいで俺はバンドから追い出されたけど、俺は後悔してないよ。俺は自分のしてることをちゃんと分かってたし、ディアナと愛し合ってた。それに俺には素晴らしい娘が授かったんだし。

言っておくけど、リッキーと彼女は別れてたんだよ。最初バンドに入って、彼女と会ったときはやな女だと思ってた。でもある時から、お互いに惹かれるようになって、変な感情に変わってきて。彼女がレコード契約をとったから、俺は作曲を手伝ってたんだ。でも彼女はまだリッキーと付き合ってたし、リッキーとの間に問題があるみたいだったけど、その時は俺とは何もなかった。

でも彼女が俺に「愛してる」って言うから、だったら証明してみろよって、2億円相当(今なら6億円相当)もする豪華なリッキーの家から出てみろよ、お前の生活変えてみろよって言ったのさ。当時俺はスタジオのゲストハウスで寝泊りしてる状態で、彼女が全部捨てて俺のところに来るとは思えなかった。

数日後、リッキーのスタジオに行ったら、「信じられない。彼女が出て行った。スーツケースに身の回りのものを詰め込んで。彼女とは終わった」って言うんだよ。彼女はどこに行ったのか聞いたら、「友達の家に行った」ってことだった。これからツアーに出るとこだってのに、しまった!と思ったよ。

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この後、2人の関係とバンド解雇の真相はpart2に続く