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Eat 'Em and Smile 30年目の真実 Part 4 伝説のアルバムレコーディング!

先週に引き続き、Eat 'Em and Smile 30年目の真実 Part 4 です。Van Halen を脱退したデイヴ・リー・ロスは映画製作に乗り出し、新バンドを結成して楽曲製作と映画製作の準備を進めましたが、資金元の制作会社の撤退により映画製作を断念せざるを得ませんでした。

残ったバンドでのアルバム発売とツアーでの逆襲を目指すデイヴはレコーディングを開始します。元記事はこちら

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1985年11月の下旬、映画製作が中止されてたったの数日後には、4人のミュージシャンの姿はバークレーのFantasy Studio にありました。プロデューサーのテンプルマンとエンジニアのジェフ・ヘンドリクソンも一緒に。

ヘンドリクソンはサミー・ヘイガーの "V.O.A." やAerosmithの "Mirrors"、ロスのEP "Crazy" を手がけた人物で、彼によると、プロデューサーはある特定の方法でレコーディングを始めたそうです。

「最初の数日間、テッドと私は全てを録音したんだ。それでバンドは曲の感じをつかんでいった。時折、私たちはそれをマスターテイクにしていたよ、とても素晴らしかったのでね」

テンプルマンはこのライブカットのアプローチによってミュージシャンが録音の赤いライト(レコーディングルームにあるライトで録音中であることを知らせるランプ)を気にすることなく、どの曲がアルバム向きであるかを彼が判断できると考えていたのです。

ヘンドリクソンはこう言っています。「私たちはそうやって多くのキープ曲を録っていった。バンドがいい波に乗れていないと思っているとき、彼らはツアー中のようなプレイをするから、いい感じが出てくるんだ。でも時には随分と手を加えなくてはならない曲や全くアルバムには向かない曲もある」

テンプルマンとロスは録音を聞き、当初アルバム用に11曲を決めていきました。ヴァイとロスで作曲した6曲と5つのカバー曲のうちにはシーンが Talas 時代に作った強烈なロックソング "Shy Boy" も含まれていました。

ロスはテンプルマンの仕事の進め方に慣れ親しんでいましたが、ヴァイはこのやり方に慣れるのに時間がかかりました。ヴァイはスタジオ作業について全く異なった考え方をしていたのです。

「当時はあのやり方がいいのか分からなかった。でもそのうちに気付いたのさ、これは凄く楽しいとね。スタジオに入ってプレイするだけだ。デイヴが歌うためのベーシックトラックの半分くらいは録っておいた。

私は普段はスタジオに座ってギターを弾いて、パンチインでまた録ってと繰り返すのに慣れていたけれど、テッドのやり方はスタジオにただ入って最高の演奏を一発決めるってことだった」とヴァイ。

テンプルマンの手法は彼とロスが Van Halen 時代にやってきたものでしたが、ここでも成果を上げました。4人のミュージシャンはエネルギッシュでオーバーダブが最小限のロス代表曲となる "Tabacco Road" "Goin Crazy" "Shy Boy" を仕上げたのです。

その翌週には、アメリカで最もホットなスタジオ The Power Station での録音のためにバンドはNYに入りました。ロスは特にNYでの仕事が好きでした。マンハッタンの通りから受けるエネルギーに満ちたバイブにインスパイアされるからです。

「The Power Station はNYのヘルズキッチン(NYで当時治安が悪い地区)にあって、ニューギニアより危険なんだ。そこにレコーディングで1ヶ月以上も滞在したら、周りの環境から受ける不安感をアルバムに反映させてしまうのさ」とロスはリポーターに語っていました。

ヴァイにとって不安を掻き立てられたのは、気だるい雰囲気の "Ladies Nite in Buffalo" でした。オリジナルのデモでは山ほどキーボードとギターのオーバーダブを使っていたものの、テンプルマンにライブ形式での通し演奏を求められ、ヴァイは狙ってギターパートをシンプルな1パートにまとめて演奏しました。このベーシックトラックを後で差し替えて、複数のオーバーダブを録音するつもりだったのです。

しかしながら、テンプルマンはヴァイの考えとは違っていました。録音を聞いた彼は、1テイクでヴァイは見事な演奏をしたと考えたのです。ヴァイはテンプルマンは気が狂ったと思いました。

「もちろん、私はアーティストとして、もう一度やらせてくれと頼み込んだよ」とヴァイ。

「ヴァイはずっと食下がっていた。彼はベーシックトラックのギターは酷い出来だと思っていたんだ。彼は几帳面過ぎるんだ。でも彼のプレイは皆を驚かせるほどの出来だった。これを変えたいなんて信じられないね」とヘンドリクソンは語っています。

最終的にはテンプルマンと他の皆が、録音したギターパートはそのままで素晴らしいとヴァイを説得したのでした。

オーバーダブを毛嫌いするテンプルマンでしたが、ヴァイはしつこく食下がり、追加のギターパートをアルバムに加えるよう説得しました。

「"Elephant Gun" をやった時、ギターパートをダブルにしたいと言ったんだ。パートにまとまりがなかったから。するとテッドは「ダブルにするってどういうことだ?」と言うから、私は全ての音を完璧に再現できると言ったのさ」とヴァイ。

初めは却下していたものの、テンプルマンはGOサインを出しました。ヴァイはダブルパートを弾いたものの、途中で弦が切れてしまったのです。テンプルマンは「これはギター1本にしておいたほうがいいってことだろう」と言ってスタジオを1日留守にしました。

ヴァイは即座に再度プレイしました。「ダブルパートの録音を仕上げて、翌日テッドに聞かせたところ、彼が気に入ったので、アルバムに入れることができたんだ」

ヴァイはアルバムのファーストシングルになる "Yankee Rose" にも彼の専売特許となる奇抜なギターを加えました。

「中間部のハーフセクションにはちょっとしたいいアルペジオのコードが入っていて、飾り気が無い感じだ。だから私は、ここに何か奇抜なソロを入れさせてくれと言ったんだ。ディレイを長いのにセットしてプレイしたんだ」

ロスもこの曲にはアイデアがありました。ヴァイがオーバーダブをやっている間に、アウトロのソロを考えるよう、ヴァイに指示したのです。これはMTVの視聴者を視覚的に捕らえるためのものでした。

「ビデオではギターを足の間に突っ込んで何かやって欲しいんだ」とロス。そこでヴァイは曲の締めくくりにアームを振り回すリックを思いついたのです。

ロスのMTVをターゲットとした戦略にも関わらず、NYでのレコーディングでは80年代というよりもむしろ30年代にしっくりくる曲も録音されました。"I'm Easy" のオリジナルはオーストラリアのシンガー、ビリー・フィールドのビッグバンドな曲でしたが、テンプルマンはロスのジゴロなキャラクターにぴったりだと考えました。

テンプルマンは1週間前のプリプロダクションでこの曲をバンドに聞かせ、「グレッグ、これは君の腕の見せ所になるぞ。君は5本のトランペット、5本のトロンボーン、5本のサックスのパートを叩いていたんだからな」と言ったのでした。

この時点で、ビゾネットはかつて彼がプレイしていたメイナード・ファーガソンのコネクションを使ってセッションプレイヤーを探すことになりました。「グレッグ、君は誰でも知ってるみたいだな。NYで最高のビッグバンドを集めるのを手伝ってくれるか?」とテッドに頼まれたのです。

「ああ、できるよ」と答えたグレッグ、彼が集めたセッションプレイヤーを見たテッドを「凄いな、君は全部一級のミュージシャンを集めたな!」と感心させたのでした。

ヴァイも "I'm Easy" のホーンパートの製作に重要な役割を果たしました。

「私が作曲してホーンセクションを監督したんだ。見せたかったよ、私は蛇革のパンツをはいていて、ビッグな髪型で、監督席に座って片手に指揮棒、片手に大きな譜面を持ってた。

NYで最高のホーンミュージシャン12人がいて、「よし、じゃぁここではもう少しスタッカートを利かせてくれ」なんて言ってたのさ」とヴァイ。

ビゾネットによると普段はギタリストだけれど、バークリー出身のヴァイの仕事ぶりを皆が驚いて見ていたそうです。

「彼はただ座ってペンと五線譜を持ち、ビッグバンドのアレンジを書き上げたんだ。そしてミュージシャンが俺たちの録音に合わせてプレイしてオーバーダブを録ったんだ。あれは凄かったよ」

(Part 5  ツアーの成功、そして30年目のリユニオン に続く・・)