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キップ・ウィンガー Part1 「俺はソロアーティストとしてのデビューを目指していたんだ」

3月のソロ来日公演も近いキップ・ウィンガーが生まれ故郷コロラド州デンバーのメディアインタビューに応えました。

久しぶりのロングインタビューで、自身の半生を振り返っての興味深い話がたくさん聞けます。長いので今週は前半の概要を和訳してみました。

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あなたは音楽一家の生まれだそうですね。

ああ、俺の兄貴のポールは幼い頃からジャムを初めたんだ、俺が7歳の頃かな?その前にヤマハのピアノレッスンクラスがあったんだ、それは途中でスズキになったんだっけかな?とにかくそれで俺は初見演奏が得意になったんだ。でも兄弟で家の地下室でバンド練習を始めるようになってGrand Funk Railroad をプレイするようになったら行かなくなってしまった。

元々俺の両親はジャズ・ミュージシャンでトリオのジャズバンドでプレイしてたんだ。両親はクリスマスに兄貴に楽器をプレゼントしたんだけど、数か月後に俺にもベースを買ってくれたんだ。俺はずっとベースを弾きたかったんだ、リズムガイなんだよ。ソロを弾くようなプレイヤーだったら人生違っていたかも知れないけれど、俺はずっとポール・マッカートニーに憧れていたんだ。

ベースソロについてはどう思います?

あー、俺は昔ながらのベースプレイヤーだから。ああいうピロピロいう凄いのはギターで弾けばいいと思うよ。ビリー・シーンはもちろん素晴らしい、誰もあんな風に弾けないよ。俺にとってのベースプレイヤーはマッカートニーや、Grand Funk Railroad のメル・サッチャーAlice Cooper Band のデニス・ダナウェイなんだ。

何歳ごろから歌い始めたのですか?

家族皆が歌うんだよ。全員でハーモニーを取る。地下室で歌ったよ、その頃のテープがある。

オンラインで公開はしていませんか?

していない。でもほんの少しをここで流せるようサンプルで送ってもいい。とにかく、ピーター・フレッチャーってまだデンバーにいると思うんだけど、彼と兄のネイトとポールがプレイしてて、Creedence Clearwater Revival から Black Sabbath まで何でもやってた。

それで、俺が初めて行ったコンサートは Bread なんだ。親父が買ってくれたベースは Beatles スタイルの Greco でさ、コンサートの後でデヴィッド・ゲイツ(Bread のベースプレイヤー)のところまで連れて行ってくれた。「あなたと同じベースなんだ!」って話したら「弾き続けてモノにしろよ」って言ってもらった。

親父が俺たち4人のマネージャーみたいなもので、ギグを入れたりしてた。変なところでプレイしたよ、アスレチック・センターみたいな。でも両親が離婚してポールは母と住むようになって、しばらくトリオのバンドになっていたんだけど、やがてポールが戻ってきた。そうやって誰かが出たり入ったりしていたけれど、12年くらい続いた。

その頃には高校でプレイしたり、クラブでプレイしたり。当時は凄くクールなクラブシーンがあったんだよ。ブルーズのいいバンドがいたり、クールな70年代のプログレバンドもいた。俺たちはコロラドのシーンで成長していたんだ。

テレビで The Beatles を見て、これだ!これをやらなくちゃ!みたいに自分の使命に目覚めた瞬間というのはありますか?

俺は若すぎてそういう瞬間は分からなかった。俺はただずっと音楽に溢れた環境の中で育ってきたんだ。だから、何か一つをこれだ!という風に目指すのではなく、色々なものを吸収してきたんだ。それらが俺の神経の中心を刺激して、「これをやりたい」、「これをやりたい」って思う。今でもずっとそうなんだよ。

自分の武器を選んでそれに磨きをかけろって言うけれど、俺はいろいろなものに関心があった。他の多くの人よりも多才なタイプなんだ。ずいぶん若い頃にクラシック音楽に関心を持った。16歳頃だったかな、クラシック・バレエを習いながら、クラシック・ギターを練習してたのさ。

クラシック・ギターではプログレッシブ音楽に触れた。Yes や Jethro Tull なんかさ。バレエでは偉大な作曲家たち、ストラヴィンスキーチャイコフスキーなどを聞いていた。そのときから、クラシック音楽を聞いていたし、自分でも作曲できると分かっていたよ。俺がニューヨークに越したとき、最初にやったのは作曲の教師を探すことだった。でも交響楽団が俺の作曲した曲をプレイする日がくるとは思わなかった、夢にもね。

幼くしてあなた方はカバーソングをやるだけでなく、オリジナルをプレイしていたのですよね、何歳でした?

12歳のときに初めて曲を書いたんだ。Yes の焼き直しだったけど。題名は "Dreams" さ。若いパンクの夢追い少年だったからな。でも曲にはオリジナルの要素も入ってた。ギターは典型的な感じだったな。フレッチャーと俺はアコースティック・ギターが上手かったんだ。2人で座りながらギターを弾いて作曲したものさ。俺たちは作曲に熱中して、とてもクールな曲も書いたんだ。音楽的にさ、歌詞はひどいものだったけど。

高校生でバンドをやってて、ギグもこなしてるってどんな感じだったんです?フロントマンでしたか?

全員が前に出て歌ってたよ。レブと Winger を始めるとき、「誰がこれを歌うんだよ?」ってなって、あいつが「俺は歌わねえ」って言うから俺がやらなくちゃいけなくなった。俺はフロントマンじゃなかったんだ。コロラドのバンドでは4人がそれぞれリードをとって、全員がハーモニーをやった。全員が歌い、全員がオーディエンスと話したのさ。

思えば、Winger は初ライブで Scorpions のサポートをするまでオーディエンスの前でプレイしたことがなかったんだ。それなのに10,000人の観客の前でプレイしなくちゃならない。何てことだと思ったよ。俺はそれまでに100万回もステージでプレイしたことはあるけど、あれは堪えたね。

高校生でバンドをやっていたということは、学校でも有名な子供だったのですか?グルーピーたちはいた?

ファンはいた。俺たちは音楽的にも優れていたし、歌も上手かった。自分では凄いと思うものだけど、実際にそれ程ではないんだよ。でも正直に言えば、もし俺たちがロスに住んでいたらずっと上手くいっていたと思う。そしていいプロデューサーがいて、作曲やなんかを手伝ってくれていたらね。まぁ、自分たちでは凄いと思っていたけど、普通のバンドだったのさ。グルーピーもちょっといたよ、楽しかったな。

学校ではどういう子供でした?

全くダメだ。4年生の時は勉強に熱心で校長に君は1年飛び級したかったらしてもいいぞと言われたときもあった。でも音楽だけをやりたいと思って、結局高校を1年で中退してしまった。教室では酷いものだったよ、読むのが苦手で、何にも関心が持てず、単位が取れなかった。いつも頭では音楽のことを考えていて勉強は駄目だったんだ。

ニューヨークに行ったのはいつですか?

フレッチャーはバンドを辞めてロスに移った。でもポールとネイトと俺は続けてた。そして18歳のときにニューヨークへ移ったんだ。俺達にはエージェントがいたし、ギグもあった。レコード契約前の Twisted Sisters のオープニングもやったんだ。俺たちは Rush の曲やオリジナルをプレイしてた。

レコード契約を取ろうとしたけど、上手くいかず故郷へ戻ったのさ。まず録音しようってことで、沢山やったよ。そしてデンバーに住んでたボー・ヒルに会ったんだ。彼は Air Bone ってバンドをCBSでやってた。クリフ・パワーズってマネージャーを通して知り合ったのさ。俺たちはボーがプロデュースした最初のバンドになった。

そして彼がニューヨークへ越した頃、俺たちのバンドは上手くいかなくなっていたんだ。兄弟のバンドってのは難しくてね。それで俺はニューヨークに行く決心をしたんだ。ボーしか俺のコネは無かったからロスじゃなくてニューヨークだった。

そうして俺は順番を待った。作曲の教師について勉強をしながら、あらゆるオーディションを受けた。Billy Idol からクルーズ船のバックコーラスまで。とにかく必死だったよ。

運が向いてきたのはいつでしたか?

ボーは Ratt のプロデュースで成功していた。それで大量のプロデュースをしていたから、手伝いが必要だったんだよ。俺は彼と長く働いて彼のやり方を全部知っていたから、完璧なアシスタントだったのさ。俺は言われなくても何でも彼の要求をやったから。彼は俺のレコード契約のためにも随分頑張ってくれた。俺はソロアーティストとしてのデビューを目指していたんだ。そんなときにレブに出会ったんだよ。レブは俺のソロ曲で弾いてくれた。

それでボーが Alice Cooper をプロデュースしていたとき、4曲でベースが必要になった。それをプレイしたことでアリスのツアーに呼ばれたんだ。俺はそのチャンスに飛び乗るしかなかった。俺とボーの関係はとても個人的な面があって、話せないことだけど彼と距離を置く必要があった。それでアリスのツアーに参加したんだ。

ライブツアーの偉大なる権威であるアリスから学んで、自分の実力をつけていく過程だった。俺は24歳で、2ヵ月のリハーサルをやって、それからは16,000人の観客の前でプレイしテレビでも放映された。そんなライブでベースソロをやれって言われたんだ。俺はそんなのやらないのに。最悪だよ、ライブDVDに残ってしまった。やたらピッキングが速いだけで酷いもんさ。

アリスは才能を見抜く力を持った稀有な人物で、その才能を育て、サポートし、巣立っていくのを喜んで見送る人だと聞いたことがあります。

ああそうだ。彼は常に励ましてくれて、それでいて支配欲がないんだ。彼はあまりにもビッグな人だから、そんなこと気にもしない。彼と仕事をしたければ、いい仕事をすればいいんだ。

今でもアリスとは交友がありますか?

ああ。この前日本でプレイしたんだ。同じフェスティバルに出演したから少しだけど話もできた。

Winger はどうやって結成されたのでしょう。

俺はレブを知ってたし、アリスでポール・テイラーにも会ったし、ケン・メアリーもいた。それでバンドをやろうって思ったのさ。それでアリスのアルバムをやってから、「いつまでもサイドマンはやらない。俺はこの船から飛び降りるぜ」ってメンバーに言ったら、「お前、気は確かか?」って言われた。

でも俺はレブとスタジオで6ヶ月探求して、ファーストアルバムを書き上げたんだ。そこでロッドにも出会った。俺はボーとまだ仲が良くて、彼と曲に手を加えたんだ。俺たちはあらゆるレコード会社に契約を断られていたんで、ボーが情けで知り合いのアトランティックに頼んでくれたんだよ。やっとできた最低の契約だった。

最初の半年は危機的状態で、レコードは16,000枚しか売れなかった。彼らは契約を切ろうとしてた。ところがMTVの時代がきて、いいエージェントのおかげでツアーに出て、"Seventeen" がキーとなって実際に売れ始めたんだ。ビデオでは当時他のバンドがやっていないと思うことをやったよ。俺には(バレエ)トレーニングのバックグラウンドもあったから。

Part2 へ続く