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アレックス・スコルニック Part 1「ミュージシャンは臆せずに政治的信念に声を上げてきた」

Testament のギタリスト、アレックス・スコルニックが Newslines Magazine に寄稿しました。アーティストが政治的意見を述べることについて、自身の意見を述べたもので、実に読みごたえがあります。

日本でもそうですが、アメリカでもアーティストが政治的意見を述べることについて賛否両論があり、タブー視されたり、自分の活動の為にも口をつぐむアーティストがいる中で、このように意見を明らかにしたアレックス、さすがのインテリギタリスト。

彼は元々民主党支持で自身のSNSでも立場を明らかにし、そのような投稿も多くしており、私はこの1年ほど実に興味深く観察していました。スラッシュメタルバンドのギタリストで、自身のジャズバンドを率い、読書や写真を趣味として政治活動も行う、愛猫家。知的でジョークと皮肉のセンスが抜群のアレックスの文章は実に興味深いものでした。

アレックスの寄稿文を和訳してみました。今週は Part 1。

newlinesmag.com

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"Shut Up and Play Your Guitar" (Frank Zappa)

音楽メディアをチェックしていると時折、「~にアーティストが反応」の類の見出しに出くわす。私がこの手の分野の定番になった理由は定かではないが、私はこの手の分野でしばしば話題にされ、私よりずっと知名度の高いミュージシャンと共に語られる。時にはハリウッドセレブの1~2人と共に記事になることも。主に同業者に尊重される程度の楽器演奏者であり、主にミュージシャンを対象とした出版物を通じて知られる身としては、そのような注目を浴びる人の同類として私はしっくりこないかも知れない。だがその理由については推察できる。

舞台芸術の世界で生計を立てる人々:ギグ・エコノミー。「ギグ」という言葉はミュージシャンにとって1つ以上の意味がある。それは主題を分離して、潜在的に聴衆の1部を疎外することを語る心配に満ちた見解だ。皆がフォロワー数の勘定に夢中になっていたとき、誰かにとって同意できないと見なされるたった1つの意見だけで「フォロー解除」が押されるのだ。アーティストがこのデジタル世界の地雷原を注意深く歩くのは理解できる。そして多くが自制するあまり失敗する。ミュージシャンが正直な意見を表明すると今ではニュース性があると見なされるという理由によるものだろう。

しかし、そもそも自分を正直に表現するというのがアーティストになった理由ではなかったのか?

私たちの生きる現在とは、かつてジョージ・オーウェルやオルダス・ハスクリーが想像したダークなディストピア、また近年ではマーガレット・アトウッドデイヴィッド・フォスター・ウォレスが描いた世界がもはや「ありそうもない」とは思えない時代だ。『1984』『すばらしい新世界』『侍女の物語』や『Infinite Jest』を読んでそこに広がる堕落した世界に現在の我々の社会的そして政治的状況の反響を見つけずにはいられないだろう。悪しき思想は党派に偏ったものではない。それに私は左派の思想に自動的に賛成はしない、特に急進左派には。しかしその短所を今の右派と比較するなら、等価関係にはない。MEGA運動、その運動に同調する共和党員、右派メディアの生態系、Qアノン、白人民族主義者、「オルタナ右派」から保守派資金提供者まで、かつてのテレビスターで文字通り黄金の肖像になって崇拝される人物に反民主主義的意識が具現化されたようだ。

ウィル・フェレルが映画『ズーランダー』で演じた役のセリフを借りるなら、「権威主義が今の流行り」だ。

2000年代中頃、The Dixie Chicks が当時大統領であったジョージ・ブッシュイラク戦争について批判した事によって、自身のファン、ラジオ局、事実上は国中の音楽権威から要注意人物リストに入れられた。皮肉のかけらもなく、これと同一の層は前大統領ドナルド・トランプがブッシュとその戦争について同じことを言っても擁護するだろう。そして悲観論者となって「キャンセル・カルチャー」(訳者注:個人や組織、思想などのある一側面や一要素だけを取り上げて問題視し、その存在すべてを否定するかのように非難すること)の脅威を煽るのだ。((その運動は)左派からではあるが)いずれにせよ、その出来事は文化紛争のマイルストーンを記録した。すなわち、21世紀における最初であり、状況からすれば後に起こる多数の紛争の先駆けとなった。その波紋は今だ感じられ、それによって多くのアーティストが政治の世界に足を踏み入れるのに恐れを抱いた。

幸運にもアーティストとしてフルタイムの活動をして生計を立てられる私たち、かつ(どんな攻撃にも)びくともしないトップ1%のセレブに含まれない者にとって、揺るぎ難い事実だ。私たちは失うほど多くを持ってはいないが、収入が減るリスクを冒している。常にファンベースを築こうと精を出す身としては、それを縮小させるかも知れない何事にも躊躇するのは理解できる。しかし、そのような恐れで多くのアーティストが自己を過小評価し、潜在的に彼らの芸術を貶めることになる。公式に歯に衣を着せぬ物言いをしたアーティスト、特に高額納税者の仲間入りをした者が今やかつての彼ら自身の作品の格下げ版のようなつまらない作品を量産している事例は枚挙にいとまがない。

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アーティストとして、我々は真の自分自身を支持してくれるファンベースを築くのを目指すべきだ。真の自分とは、想像力に富み、精力的で複雑な人間で様々な特徴を伴う人格をも含む。そう政治的見解も。全てが浅薄の同質生産物などではあり得ない。アーティストとしての誠実さを保ちつつ、このようなオーディエンスを獲得するためには、むしろ少数のフォロワーを失ってもよしとすべきだ。特に我々の創造の主題が彼らの好みどおりであることを望む種類のフォロワーを。

真の芸術性とは時としてファンを挑発することでもある。歩み寄って新たな見方の発見をする者もいれば、自己の偏見に浴す快適さを好み、侮辱の言葉を投げつけ、「フォロー解除」を押す者もいるだろう。注目を集めることが貴重商品と化した現在において、オーディエンスを失う恐怖は理解できる。しかしそもそも、そのオーディエンスを築いたのは恐れなき想像力の行為であったことを私たちは忘れている。政治的活動をすることにリスクがあるのなら、そのようなファンから距離をとる満足もまたあるだろう。私が政治的問題を発言する度に、少数のファンから距離ができた。それに私の見解はジャーナリストや世論形成者によって増幅された。そのうちの何人かはビッグネームだ。これによって逆に私の従来のオーディエンス枠を超えた人々の注目するところとなり、新たなフォローやより多くのリツイートを生んだ。私にとって最大の損失は恐怖に屈してこのような時代に自分の意見を抑圧することだ。

皮肉なことに、ロックとはそもそも大胆な声明だった。ジミ・ヘンドリックスの "Machine Gun" (ベトナム戦争について)、ボブ・ディランの "Masters of War" (軍産複合体について)、Crosby, Stills, Nash & Young の "Ohio" (ケント州立大学銃撃事件について。注:1970年オハイオ州ケント州立大学で起きた銃撃事件、米軍による中立国カンボジアへの爆撃に反対する大規模な抗議活動中に、オハイオ州兵が非武装の大学生を銃撃した)、Black Sabbath の "Into the Void" (米ソの宇宙開発競争について)、ジョニ・ミッチェルの "Big Yellow Taxi" (自然破壊について)、スティングの "Russians" (米ソ冷戦について)、U2の "Sunday, Bloody Sunday" (北アイルランド紛争について)から Metallica の "One" and "Disposable Heroes" (軍国主義における人的コストについて)まで。ミュージシャンは臆せずに政治的信念に声を上げてきた。オーディエンスが聴いて育ってきた多くの音楽が政治的信念を明示したものであったのに、彼らがアーティストが異なる意見を表明するのに余りにも不寛容になったのは実に皮肉なことだ。

そもそも私が音楽の道を追求した動機の一部は自分が表現したいことを抑圧されないことだった。感情を押し殺して、笑顔を貼り付け、収入の元へおべっかを使うことが求められる通常の仕事では長続きしなかっただろう。1999年のマイク・ジャッジ監督映画『リストラ・マン』はそのような状況を巧みに風刺している。そしていくつかの点では、私の政治的ツイートに「ギターだけ弾いてろ!(Shut Up and Play Your Guitar)」の類の反応をした不満を抱えたSNSメディアのフォロワーの群衆は、非協調主義者の世界にあるアーティストに(映画と)同様の種類の服従を強いようとしている。

自己のプラットフォームをただイベント告知、物販の宣伝やギター話に使って、その日の政治的出来事や環境破壊や公衆衛生危機にコメントしないのはモラル放棄に値するだろう。芸術を刺激する体験から自己を切り離すことになる。それでは凍った笑顔を貼り付けていることになる、まるでフィクションの息苦しい『リストラ・マン』の世界の労働者のように―市民そして芸術家としての人間的体験を減らす疾病を隠すために。

ファンはいつもこうではなかったし、私もそうではなかった。

私は承認を得るため、そしてただ単に仲間に溶け込むために対立を避けることを望む少年期をすごした。生まれながらに話す才能のある人もいる。青年期の始めまで、私は精神的な胸のつかえを抱えていた。内向的な性格だったので、話をする能力の代わりに別の表現方法を身に付けることが救いだった。私の場合、その方法は人々が振り回してきた6弦の楽器で、近代史の様々な場面で行儀のよい社会から攻撃的と考えられてきたものだった。十代の私にとって、エレキギターが抑圧された感情を開放する術となった。ギターは私に創造的で満足のいくキャリアを与えてくれただけでなく、極度の内気と気後れを克服する助けとなった。

大人になると、音楽によって私は世界中を何度も巡り、そうでなくては知る由もなかった人々に出会い、様々な場所を訪れ、経験をした。この経験は明らかに私の世界観を深めた。私はしばしば「アメリカこそ世界一」を唱え、他人に自らの「愛国主義」を押し付ける人々に打ちひしがれてきた。その人々の多くは一度も外国に行ったことがないのだ。

(Part 2 に続く)

 (上)アレックスの楽しいジョークセンスが垣間見れるツイート。今回の寄稿記事を取り上げたメディアのツイート「Testament のアレックス・スコルニックが「黙ってギターを弾く」のを拒否した」を引用して、「アレクサ、"The Imperial March" をかけて」のコメントと共に、スターウォーズ『帝国の逆襲』サウンドトラックから "The Imperial March" のリンクを貼って投稿。正にアーティストの逆襲という訳ね、こういうセンス好きだなぁ。(笑)