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Green (@ribbon_bear) が毎週好きな音楽ネタを語ります! Since 2011

ジョー・サトリアーニ ブラックマンデーの奇跡

今週もジョー・サトリアーニのインタビューから一部を和訳しました。Ultimate Classic Rock の記事とLoud Guitarsのインタビュー動画です。
Loud Guitarsのインタビュアーは大のサトリアーニ・ファンだそうで、インタビューの間、サト兄を見つめる視線と笑顔が彼女の興奮状態を物語っています。彼女の質問がとても良いので、ディープなエピソードが聞けて楽しい。

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スタジオアルバムのボックス・セット発売について教えてください。

友人で、長年の共同プロデューサーJohn Cunibertiがリマスターすることになってね、俺と2人で別バージョンのテイクや未発表曲なんかも入れようとしてるんだ。本当は去年リリースする予定だったけど、俺の本が出版されることになったから、レコード会社のソニーが「それはいい、一緒にリリースしよう」ってことになった。

ある日の作業中にジョンからアンディ・ウォーホルの引用メールが届いてさ、「芸術を創ろうと考えるな。とにかく仕上げろ。作品の良し悪しは好きか嫌いかで他人に決めさせればいい。彼らが決めているうちに、次の芸術作品を創るんだ」とあった。釘付けになってしまった。それ以来時々眺めては、「そのとおりだ!」って、とにかく物事を前に進めるようにしてる。

あなたのキャリアの中で信じられないような出来事が立て続けに起こったということはありますか?

"Surfing With the Alien"だな。あのアルバムを作った時は、予算超過してて、誰も売れると思ってなかったけど、レコード会社のCliff Cultreriだけがあのアルバムを信じてた。レコードは1987年のブラックマンデー(NY株価大暴落の日)に発売されて、とにかく何もかも最悪だった。でもなぜか3週間後には全てがうまく行ってたんだ。

あのとき、リラティビティ・レコードの社長からもらった電話は今でも忘れられない。直ぐにツアーに出ろって言われたんだ。
俺はその時、既にアルバムの失敗を覚悟して、自分の荷物をまとめて街を出て、世間から隠れようと思っていたんだ。レコード・レーベルから契約を打ち切られて、俺のキャリアは終わると覚悟してた。

「もう2度とレコードは作らせてもらえないだろう、何だよこの電話は?」と思って出た電話だった。ところが、社長は「お前のレコードはチャートを急上昇してる。あらゆるラジオ局がレコードをかけてる。ツアーに出ろ!」と言うのさ。俺の返事は「・・でも俺やったことないんだけど・・・」でさ、だってそれまで俺はステージに立ってインストゥルメンタル音楽をプレイしてショウのスターになったことなんてないんだ。いつもロックバンドのギタリストとして出ていただけで、バンドでは全曲歌モノだったのさ。

それから数週間は濃密だった。初めての自分のツアーとミック・ジャガーとのツアーがあって、アメリカに戻ったら俺のアルバムはプラチナになって、TVに出て、もうとんでもなかったよ。

ミックとのギグについて教えてください。

あの電話をもらったのは大変な頃で、小さなクラブで一晩に2回ショウをやったりしてて、毎晩赤字だったんだ。そこへあの信じられない電話があったんだけど、ストーンズの曲はもうずっとプレイしてなかったから少し心配でもあった。でもミックからは「好きなように演奏してくれ、心配するな、君自身のプレイでやってくれればいい」と言ってもらった。彼は本当に素晴らしい人で、俺のキャリアを応援してくれた。

例えば夢のスターに会ったときに幻滅することってあるだろ?実は全然凄くなかったとか、実はスターじゃなくてその隣に立ってる人がすべての仕事をやっていたりってこともある。でもミックは本当に素晴らしいミュージシャンで、楽しくて、寛大な人だ。そして一度ステージに立てば、彼のようなパフォーマーは見たことがない。彼は毎晩全力投球で、いつもショウをより良いものにするために、あれをやってみようって考えてる。個性の強いバンドを率いてまとめているのさ。彼とは今も友人さ、最高だ!

87年のレコーディングと今のレコーディングの違いを教えてください

全く違うね。当時は2インチのテープに録音する。このテープは130ドルくらいして、全予算が5,000ドルのような小額予算のレコーディングでは、2リールくらいしか買えなかった。だから何バァージョンものテイクはできないし、編集はテープを切り貼りするし、ミックスダウンも手作業で大変さ。

だから常にその場で音楽的な決断を下さなくちゃいけない。でも今ではプロ・ツールのおかげで、すべてのアイデアを録音して簡単に編集することができるから、やろうと思えばいつまででも手をかけてしまう。でもレコーディングのスケジュールはあるから規律と判断が必要だ。

当時と今を比較すると、今ではスタジオに入るときにいろいろな可能性やアイデアを試せるし、柔軟にクリエイトすることができる。録音と編集は簡単にできるからね。

自分の感情を込めた曲をオーディエンスに解釈を委ねるということは難しくないですか

THE EXTREMISTのツアーでドイツに行ったとき、"Cryin'"はTVのサッカー番組でのエンディングに今週の試合のハイライト映像を放送するのに使われていて、ドイツでは皆が知ってる曲になってたんだ。

俺自身は少し複雑な気持ちだった。この曲は俺の親父が亡くなったときに書いた曲で個人的な悲しみの感情や親父の思い出を込めているのに、ドイツでこの曲は全く違う受け止め方をされているのさ。このとき自分でも分かったよ。曲は生まれたら、自分から離れていくし、そうしなくちゃいけない。この曲はもう自分のものではなくて、聞いてくれる皆のものなんだ。

あなたは誰もやらないことをやる恐れ知らずなキャリアを持っています。キャリアの当初は苦労があったと思います。

初めてインストゥルメンタルのEPを制作しようとしたとき、掛け合ったすべてのレコード会社に断られたんだ。でもたまたま、その週に郵便で俺のクレジットカードと小切手が届いてて、「あなたのこれまでの信用力が認められ選ばれました」とか何とか書いてあるんだ。

当時の金利は凄く高かったけど、これを使ってレコーディング費用を前払いすれば、EPの制作ができるって思って、4,000ドルくらいの小切手を切って、レコーディングした。レコーディングは1年半くらいかかったと思う。
俺は地元のバンドとサンフランシスコでギグをやって何とか返済していたんだけど、収入と返済のタイミングがギリギリで大変だったから、皆にはこのやり方は勧めないよ。(笑)