ジョー・サトリアーニがメディアのインタビューに答えました。今年の G4 Experience では "Surfing With The Alien" リリース後の初ツアーバンドのメンツ、スチュ・ハムとジョナサン・モーバーがG4に集まってプレイするということも目玉の1つです。
とても興味深いインタビュー(Ultimate Classic Rock / Guitar Player)がありましたので、双方の1部を和訳し、まとめてみました。
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今年のG4では "Surfing With The Alien" ツアーバンドのスチュ・ハムとジョナサン・モーバーが参加しますね。アルバムの全曲再現などをするのですか?
それはツアーでやるなら意味があるかもね。あのレコードとツアーには奇妙な私のキャリアが花開く過程の裏話があって、そもそもあのアルバムはスタジオでのオーバーダブを多用したプロジェクトなんだ。
人間のドラムは2曲でしか使われていない、しかも曲を通して叩いているのは1曲だけだ。あのアルバムにはバンドなんていないんだ。私がギターとベースとキーボードを弾いて、ジェフ・キャンピテリがほんの少しドラムを叩いた。
ツアーに出る段になって、私はバンドの2人とは1度もプレイしたことがなかった。それにこのスタジオ・レコーディング作品をどうやってライブショウに落とし込むのか、全く見当がつかなかった。
「ただクレイジーにやろう」そう思ったんだ。私たちには予算はなかったけれど、演奏はできる。だからひたすらプレイして皆の反応を見ようと。バンドではお互いに自分のプレイをする余地を持ったが、それは毎晩どんなマジックを起こせるかにかかっていて、とても危険で厳しかった。
タイトなショウを毎晩できる方がいいけれど、それはできなかった。毎晩のライブでは自分のプレイにひらめきが降りてくるのに賭けていた。でもそれが私たちのライブの呼び物になったのだと思う。ミュージシャンがクレイジーに演奏するという要素、スタジオアルバムに欠けていた要素を加えたんだ。
1晩に2つのショウをやるというのは大変過酷だったのではありませんか?
ああ、とてもタフだったよ。指にはキツかったし、バンド全員にキツかった。バンドとクルーが小さくて粗末なバスに乗ったツアーで、宿に泊まれるときも酷いホテルだったし、死ぬほど過酷だった。洗濯物は臭うし、クラブでは私たちに食事も飲み物も提供されなかった。ただひたすら働いたのさ。私がそこでは最年長で、私にはそれがどういうものか分かっていた。
私は法的に認められる年齢の前からずっとクラブギグをやっていたから。16歳のときからNYでやっていたんだよ。当時はそういうことが出来た。だから私にはそのツアーが昔ながらのエンターテイメント ビジネスになるってことは分かっていたんだ。つまり、とにかくできるだけ多くの人の前でプレイしまくってオーディエンスを増やすということで、私たちはそれをやったのさ。
スチュとジョナサンとはどう知り合ったのですか?
2つあってね、1つはある日スティーブ・ヴァイと電話で話していて
「レコード会社がツアーに出ろって言うんだ、インスト音楽をステージでプレイしたことなんてないのに」
って笑っていた。何しろバンドなんて考えてもいなかった。
「ところでスティーブ、ベースプレイヤーが必要なんだけど」と言うと
「スチュ・ハムって奴とプレイしたけど、本当にクレイジーな奴でね、多分君も気に入るよ」
とスティーブが言うので、彼の電話番号を教えてもらったのさ。それでスチュに電話して
「ここで会えるかな?何曲かカセットで送るよ」と。
もう1つはその週の後半にペンシルベニアのホシノUSAのオフィスに行って、ギターの件でミーティング(訳者注:ジョナサン・モーバーによるとエンドース契約だったとのこと)があった。待合室に座っていたもう1人の男に自己紹介して話し始めたら、彼はドラマーだと言うから
「来週シカゴでドラマーが要るんだよ。ここでカセットを渡したら4曲ほど覚えてもらえる?それでシカゴのNAMMショウに行く予定があればギグがあるんだ。スチュ・ハムという奴がベースを弾く」 彼はスチュを知らなかった。
当日、私たちが Surfing アルバムから数曲をプレイしたら、スティーブ・ヴァイが加わって、素晴らしい夜になったよ。それがこのバンドの始まりで、Surfing のツアーになるんだ。
これがその88年NAMMショウの動画です!サッチはこの場で初めてバンド(スチュ・ハムとジョナサン・モーバー)と演奏!ヴァイ先生と一緒に "Satch Boogie" を弾いている貴重な動画!
このバンドでは"Surfing With The Alien"と "Flying In A Blue Dream "のツアーをやっている。
95年のツアーまで一緒にやったのだけど、ジョナサンとはこの20年間連絡を取っていないんだ。彼とは最後に上手くいってないままでね。でも最近ジョナサンと話したという友人のドラマーの話を聞いて、ジョナサンに突然電話してみたんだ。
「やぁ、ちょっとぎこちない会話をしよう。もう一度お互いを知り合ってみないか」ってね。
Surfing アルバムはラジオでのオンエアが凄かったですよね、信じられなかったのでは?
ああ。当時は今と違って大手資本企業がラジオ進出する前だったから、そういうことが起こったのだと思う。地方のラジオ局が毎晩アルバムから曲をかけてくれて、信じられないくらいサポートになった。それはこのアルバムでツアーに出たことによって引き起こされたのだと思う。
当時はそれぞれ異なるマーケットを持つラジオ局がロック曲をかけていた。あるとき急に人々が自分の音楽を聞きたいと言い、DJがそれをかけるようになったのを見て、生涯に一度のことが起きているのでは、と思ったよ。
今ではロックをかけるラジオ局はほとんどない。存在している局はメディアコンサルに支配されていて、広告収入を最大化することが目的だ。誰かがラジオからヒットを飛ばすなんて可能性は皆無だよ。
いいニュースはインターネットの時代がやってきて、自分の作品への対価支払を破壊した一方で、自分の音楽を世界に広める方法が民主化されたということさ。つまりこれは変化なんだ。過去120年間の音楽ビジネスはどうかしていた、カオスだよ。インターネットのような何かが来ることは珍しいことではない。
1つのドアが閉まって別のドアが開くというのは正に今のことだ。こうして一気にアーティストは自分のアルバムを世界に向けて見せるその手段について大きな裁量を手に入れたんだ。87年当時にはそれが出来なかった。
Chickenfoot ではやっと“Divine Termination”が新曲で聞けましたが、他にも何かありますか?
つい先日、サミーの作った美しくて少し実験的でクールな曲をサミーとプレイしたところだよ。どうリリースされるのかは分からないけどね。芸術が先で商業は後からさ(笑)
あなたの新曲、ニューアルバムの予定はどうですか?
ニューアルバムに最後の手を加えているところだよ。 ビッグでファットなロック&ソウルのアルバムになるだろう、私もとても興奮している。ロスのサンセット・サウンド(スタジオ)とベイエリアのサミーのスタジオでレコーディングした。プロデューサーはマイク・フレーザーだ。来年の初めにリリースされる予定だ。
以下は Guitar Player誌 ジョナサン・モーバーのインタビューから、大変興味深いエピソードを見つけたので和訳しました。
ジョナサン・モーバー
面白い話をしよう。私とジョーとスチュでツアーしていたとき、あれはボトムラインでの1晩に2公演のショウをやっていたときだ。当時、ジェフ・ベックがミック・ジャガーのバンドから抜けたところで、私の親友で大好きなドラマーのサイモン・フィリップスはジェフとプレイしていたんだ。
彼は私がボトムラインでジョーとプレイしているのを知っていた。それで彼がミックに「俺の友達のジョナサン・モーバーが一緒にプレイしているギタープレイヤーをチェックするべきだ。彼はこれから頭角を現す奴だ」と言ったのさ。
彼は私に電話してきて、ミックとダグ・ウィンビッシュ(ベーシスト)と一緒にショウを見に来るとのことだった。そして、ミックがアンコールでステージに上がって1曲一緒に歌いたいと言うんだ。
それで私たちがライブを終えてステージを降りると
「ミック・ジャガーが来ていて、1曲歌うってことなんだ。"Red House" をやるぞ」とジョーが言うのさ。
私が「それどういう曲?」と言うと、
ジョーはただ私を見て、首を切り落としたそうだったよ。何で "Red House" を知らないんだと思うだろうけど、私はロック出身じゃないから本当に知らなかったのさ。
「ブルースだ。ヘンドリックスだよ。いいから俺のプレイについてきてくれ」
とジョーが言うので、その通りにした。素晴らしかったよ、初めてミック・ジャガーとプレイする機会に恵まれたんだ。
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サッチがミックのツアーギタリストに抜擢されたのは、Surfingアルバムが売れて、オーディションで気に入られたのだと思っていましたが、オーディションに呼ばれる前にサッチのライブを見に来ていたとは!しかもそれがサイモン・フィリップスの紹介とは!驚きました。音楽業界って本当に人の繋がりが重要なんですね。