全スタジオアルバムのリマスター版"Joe Satriani: the Complete Studio Records"を発売したジョー・サトリアーニが全14枚のスタジオアルバムについて当時のエピソードを語りました。
順に2枚ずつコメントの概要を和訳してみます。(vol.7まで休み休み進む予定です、今のところ・・・)
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Not Of This Earth (1986)
俺が思うに、タイトル・トラックはエレキ・ギタリストとして最高に大胆な宣言から始まっていると思う。つまり、80年代の他のギタリストのレコードを聞けば「聞いてくれ、俺は凄いギタリストだろ!」って始まり方してるんだ。
一方、俺は破壊主義者としてこう始めたんだ。「他のヤツらの宣言に対抗して、俺は完全に違う方法でやってやる。」俺が何をしたかって?コードの塊で始めて「このキーは何だ?当ててみろよ」って弾いたのさ。俺にとっては最高に面白いことなんだ。何かの企てがあった訳でもない。自分がやったことの重要性も理解していなかったし、そこに重要性があるとも思わなかったんだ。
俺はスタジオにアンプを持たずに行った。Pro Reverbとかそんなものを使ったと思う。1曲以外はそんな風に録音したんだ。でも1曲はマーシャルを持ち込んで録った。俺はヴィンテージ信仰に嫌気が差してたんだ。この頃、俺はギターショップでギターを教えてたから、いつもヴィンテージ信仰で一杯の客が凝った注文していくのを聞いてた。こういう人たちは俺が見たこともないような金額の買い物をしていくけれど、全く演奏できないんだ。
だから俺はそういうヴィンテージ信仰に対抗して、スタジオに行ってそこにあるアンプで演奏してやろう、この小さなScholz Rockmanでどうだ?ってね。人と同じことはしたくなかったんだ。
"The Enigmatic"を聞くと、こんな音楽を録音するために苦労して稼いだ金をつぎ込むヤツなんて、とんでもなく勇気があるヤツかバカのどっちかだ、と思える。それって凄くいい気分になるよ。
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Surfing With The Alien (1987)
このアルバムは自分の音楽的ルーツを持ち込んだ作品だ。ライブに来たリラティビティ・レコードの社長に説明したよ。「自分の音楽的ルーツに敬意を表したいんだ。俺が聴いて育ってきた音楽、チャック・ベリーからジミ・ヘンドリックスまで全部を胸を張って持ち込んで作品にしたいんだ」
社長は理解してくれなかった。A&R担当のクリフだけが俺を擁護してくれたよ。彼は社長に説き続けてくれた。「あなたは間違っている。我々はこのアルバムについてジョーにGOサインを出すべきだ」
社長と話したその夜、俺は何曲か新曲をプレイしたんだ。"Satch Boogie"をやったら、社長の気が変わってね、その頃にはほとんどの作曲を終えていたから皆の前でいくつかのバージョンを披露したんだ。
どうにか社長は分かってくれた。その夜はすごく重要だったよ。あの夜のライブ・パフォーマンスが強力だったから、このアルバムが作れたんだ。あの夜、社長に表明したことはアルバム製作中もずっと心にとめていて、スタジオでの日々の決断でどうすべきかの道しるべになった。
「今業界で起きていることと競うつもりはない。他のミュージシャンがやってること、他の独立系レーベルがリリースしてるもの、最新の速弾きギタリストのレコードを気にするな」そう自分に言い聞かせてた。
「"Always With Me, Always With You"が弾きたければやればいい。心地よく甘くシンプルに弾くんだ。あまりテクニックのいらない"Hill Of The Skull"が弾きたければ、もちろんやればいい。"Midnight" や "Ice 9"みたいなテクニカルな曲なら、そうだ弾きこなせ!」とも自分に言ってた。
でも、製作はとにかく楽しかった。'60年代中ごろから終わりには音楽がシリアスな方向に行っただろう?どんなに優れたミュージシャンシップが詰まっていても、重々しい音楽なんて皆聴きたくないだろ?だって音楽はエンターテイメントなんだから。
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追記
Not Of This Earthのレコーディング費用約5,000ドルはサトリアーニ自身がクレジットカードでキャッシングして工面したエピソードを以前紹介しましたが、当時の金利は20%くらいあったそうです。
自叙伝によると、レコーディングはスタジオの料金が安いため夜~朝行われ、サトリアーニは昼間にギター講師の仕事もあり、体力的には相当にキツかったようですが、仲間にも恵まれ、これを完成させたことが以降のキャリアを切り開きました。
Surfing With The Alienの予算は当初13,000ドルだったそうですが、結果的に29,000ドルになったそうです。ただ、この予算は当時でも相当に小額の予算だったそう。サトリアーニはスタジオでの時間を稼ぐために、スタジオで行われていた他のアーティストのレコーディングに助っ人をして、報酬の代わりにスタジオの時間をもらっていたというエピソードも本では語られていました。名作誕生の裏側には汗と涙が詰まっているんですね。