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スティーブ・ヴァイ Part 1 ジョー・"Jem″・ディスパーグニーとの黄金の思い出

6月5日、スティーブ・ヴァイオフィシャル・サイトに長年の友人であったジョー・ディスパーグニー氏の訃報を受け、ヴァイ先生の哀悼文が掲載されました。これまでにもヴァイ先生の人生に影響を与えた方への哀悼文が掲載されたことはありますが、今回はかなりの長文掲載であり、いかにジョー氏がヴァイ先生にとって大きな存在であったかが分かります。

全文を読んでみると、普段ヴァイ先生が書く文章よりも1文が短く、表現も平易で、凝った言葉も出てこないのにも驚きました。悲しみの中で、思い浮かんだ少年時代の思い出をただ書き連ねたのだと思いますが、それだけヴァイ先生にショックを与え、無防備にさせた訃報だったのだと思います。ヴァイ先生の少年時代を知る手がかりともなるこの哀悼文の全文を和訳してみました。長文の為、2週に分けて掲載します。

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とても辛いことだが、2018年5月29日(火)にジョー・“Jem”・ディスパーグニーが永眠したことを公表する。

ジョーは優れた楽器職人であるだけでなく、実にクリエイティブで、楽しく、思慮深く、寛大な人物だった。そして彼は恐らく、私にとってこの世で最高の親友だった。このような喪失に見舞われると、神の御光が貫くことがあり、このところ彼のことをずっと考えている。私の心は彼との貴重な友情の思い出、そして彼と共に過ごした青春に深い愛と感謝の念で一杯だ。彼は素晴らしい人間だった。この喪失の深い悲しみ。彼を愛した人々によって、彼は誇り高く哀悼されるだろう。

私とジョーの関係を知る人もいるだろうし、彼のことを少々知る人もいるかも知れないが、ここにもっと記そう。

 

ジョー・ディスパーグニーは私の覚えている限り、私の人生で最初から知っている。私たちは1ブロック隔てて住んでおり、常にお互いの人生を共にしていた。

私はまだこの喪失感を処理できないので、彼との思い出が溢れかえってくる。そのうちの少しをシェアしよう。

私の住んでいた通りの子供たちは皆、相対的に行いも良く、トラブルにも巻き込まれず、「してはいけない」と言われていることを実際にすることもなかった。スポーツやモノポリー、リスク(ボードゲーム)をやったり、音楽を聴いたり。基本的にとてもシンプルだった。

でも通り2つ隔てたところには全く異なる子供たちがいた。根はいいけれど、髪を固めた‟グリーザーズ”と思われていた。ヘヴィ・メタルロックンローラー、バイカー、トラブルメイカー、酒飲み、喫煙者、ドラッグ使用者だ。

私は2つのグループで時間を過ごし、どちらにもうまく馴染んでいたが、それでも少々どちらのグループにも合わないでいた。ジョーはもちろんグリーザーのグループで、彼と私は殆どの時間を2人で過ごしていたが、ロッカーの友人とつるんで出かけ、彼らとグリーザーらしい黄金の思い出をつくったものだ。

 

ジョーには弟のボブと妹のカリメラがいた。彼らは年下で、私は仲良しになった。私たちはある種の家族だった。ジョーの両親もいい人たちだった。彼らは私の両親同様にロングアイランド生粋のイタリア人だった。それに彼の母親はとても心の優しい人だった。彼女はよく私たちに料理を作ってくれた。

彼の父親は面白くて人情味があり、私たち子供に良くしてくれた。イタリア家庭で育ったから、私には家庭内のやり取りがどう機能するかが分かる。部外者から見たら、言い争いが絶えないように映ったかも知れない。けれど実際には、私たちはそうやって会話するのだ。こうしたイタリア家庭の愛は深く強いのだ。

 

ジョーは Hagstrom III のギターを持っていて、それが私が生まれて初めてプレイしたギターだ。彼の家の地下室に集まって、順番に手に取り、どうやって弾いたらいいのか探っていたものだ。

ジョーとは私が12歳のときからバークリー進学の18歳まで、殆どの時間を一緒に過ごした。私たちがお互いに与えた影響の大きさは計り知れない。

一緒にいて完全に心を許せる友達を持つことは大きな恵みだ。自分を理解してくれ、どんなことにも批判をしないから、何でも打ち明けることができた。私は少年期にもこの人生でも、そのような友人を持つことができて幸運だ。しかし、最も成長期にある10代の頃、ジョーは最も私に近しい友人だった。

我々が共に成長した年月を通して、青春時代の関心事;音楽、女の子、車、バイク、ドラック、人生、自立などを共に発見していった。ジョーと私はあらゆることについて深く話し合った。互いに口にできない話はなかった。その録音もいくつか持っている。彼はどんな単純なことにも、いつも親切で、思慮深く、寛大で、私たちはいつも笑っていた。私たちには自分たちだけが理解できる奇妙なユーモアのセンスがあるようだった。

私が13歳になって、何時間も何時間も私の部屋でギター練習をするようになっても、ジョーはそこにいた。時には私が練習している間、彼が出かけたりした。薄暗い部屋の中で、お互いにコードを弾いて、そのコードから感じる物語を語り合った。ギターで新しいリフを発見すると、私はいつもワクワクしながらジョーに弾いてみせた。長時間の練習の結果、私が思いつくものに2人で魅了されていたのだ、例えそれがヘンドリックスのパクリであっても。

「速弾き」という言葉をギタープレイに関連して聞いたのはジョーからが最初だった。それは私にも弾けた速く聞こえる「速弾き」ぽいリフを初めて私たちが発見したときだった。それから「速弾き」という言葉をよく使うようになった。あの言葉を最初に使ったのはきっと彼だったのかも知れない。

 

私たちはコンサートに行き、新たな音楽も発見していた。偽造IDを使わなくてもいい年齢(多分14歳、飲酒は18歳からだった)になると、ロングアイランドにあるファンキーなロック・バーにグリーザーの友人と通い始めた。ロングアイランドで頭角を現していたバンド;Twisted Sister, Zebra, Rat Race Choir, The Good Rats 等、のライブを見逃さないようにしていたものだ。

ロッカーの友人グループはパーティ好きで、トラブルを引き起こし、女の子と関係を持ち、マリファナをやって(大抵はオレガノが混じっていた)、けんかをして、バイクに乗り、どこでもイタズラをみつけていた。これは私の住む通りの「行儀の良い」子供たちの交友関係とは実に対照的だった。大違いだ。

もう1つ大きな転換点となったのは、私が多分14歳でRaygeというバンドに町のゴロツキのロッカー数人と共に入ったことだ。そのバンドでは、Zeppelin, Kiss, Bowie, Queen, Aerosmith など、70年代の偉大なロックを何だってプレイした。私たちはありとあらゆる奇妙なギグをやった。裏庭のパーティ、ロングアイランドのバー、高校のダンスパーティ、公園など、私たちにやらせてくれる場所全て。

私たちにはやんちゃな大グループの騒がしいオーディエンスが付いており、どこで演奏しても彼らが来ていた。“Born to be Wild” をプレイするといつもヒートアップしたものだった。どこでプレイしても、それは破壊兵器や10代の狂気を呼び起こすようで、30分にも渡って演奏したものだ、まるで興奮剤のような効果があった。

 

ロングアイランドで70年代に10代を過ごし、ロックバンドをやるのは最高だった。ジョーはその間、ずっと私の側にいた。文字通り、全てのショウ、リハーサル、自由時間の全てで。私のギターが壊れたときに修理するだけでなく、彼はバンドの電気関係、照明の立役者だった。

彼はバンドの舞台照明の責任者で、彼と私は夜に近所をこっそり周って、人の家の洪水用ライトを「借り」ては、彼が間に合わせのトラス照明を作ったものだった。私たちは JC Pennies (安売りスーパー)に行って玩具のロケット用のロケットエンジンを買ったりした。それらには実際に閃光粉が入っており、私たちは1日中座り込んで、外側の包装を剥がして閃光粉を集め、私がステージでバイオリンの弓を使ってジミー・ペイジの真似をするときに使えるようにしたものだった。

私がギターを弓で打ち、エコーがこだますると、ジョーが閃光粉を詰めた瓶を割るのだった。高校の体育館でギグをやっていたとき、閃光粉の瓶が誤動作して、一度に発光して消えてしまい、私のまつげをかすめた。驚くほど面白かった。そのギグの終わりには体育館が煙で一杯になり、それが消えると、ビール瓶の山やゲロにまみれた衣類、あらゆる種類の奇妙なガラクタ、何人かの気絶した高校生が現れたのさ。

私が初めてのオーケストラ曲 “Sweet Wind from Orange County” を書いたとき、おそらく私は15歳か16歳だったが、ジョーは側にいて励ましてくれた。彼は譜面の表紙のアートワークまでやってくれた!

(Part 2 に続く)

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