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スティーブ・ヴァイ Part.2 「10代を通しての友人には何か違いがある、人生の恵みなのだ」

先週に引き続き、スティーブ・ヴァイの長年の友人であり、5月29日に亡くなった、ジョー・ディスパーグニー氏への哀悼文の和訳続きです。

ヴァイ先生のシグネチャー・ギターを “Jem” と名付けた理由の1つがジョー・ディスパーグニー氏への想いであったとのこと。ジョー氏は Ibanez Jem の中にも生き続けるのですね、合掌。

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私たちは大食いで、高校の一時期、私の体重は200ポンド(約90kg)もあった。

ジョーと私は週末にビールを買うと、いつもバターを買うために25セント玉を取っておいた。夜出かける前にバターを茂みに隠しておいたのは、町の中心には一晩中パンを焼いているベーカリーがあったからだ。夜の騒ぎが終わって、午前3時~4時に店に行くと、店の人は焼き立てのイタリア・パンをくれたものだ。そしてバターの隠し場所に行ってはむさぼり食べたのさ。最高だったよ。

ある夜、私たちは疲れ果てて私の家に午前4時頃帰ると、空腹だった。そこで私は名高い私の「とろとろツナ」を作ったのさ。ツナ缶にたっぷりのマヨネーズとオニオンを混ぜてパンに塗り、チーズを載せてトースターで焼く。至福の味さ。でも翌朝、母にランチに何かあるかと尋ねると、棚にツナ缶があると言う。母にそれは昨夜ジョーと食べてしまったと言うと、「昨日そこで見たわよ、キャットフードの隣に」と言うので棚を見ると、驚くことにそこにはツナ缶しかなかった。あれは人生で最高に美味い「猫缶とろとろツナ」だったよ。

ジョーから学び、私の知見に多大な影響を与えた事が幾つもある。あるとき、彼の恋人が車を手に入れたので「最高じゃん、今週末、俺たちが彼女に車を借りてハンプトンズに行けるか訊いてくれよ」と言うと、「いや、あれは彼女の車だ。俺はそういう男にはならない」とジョーは言った。とてもシンプルな話だが、これは私に大きな影響を与えた。

私はバンドのシンガーから50ドルで初めての車を買った。Chevy の Impala で完全にエンジンがいかれていて、動かなかった。ジョーと私は車の中に何時間も座って、話をしながら本物の車を手に入れられたらと想像したものだった。

遂に私は両親のお下がりの Buick LeSabre をもらい、それは私たちの聖域になった。それに乗って本当にどこへでも行った。暖房もエアコンも付いていなかったが、そんなことは構わなかった。

その車に乗って初めて行ったところは一緒にタトゥーを彫るためだと思う。その何年も前からタトゥーの絵柄を描いていた。2人で家のキッチンに座って、ただ絵を描いたのさ。彼は私よりもずっと上手かった。最終的に入れたい絵柄を決めて、一緒に最初のタトゥーを入れたのだ。

私たちは Harley に夢中になった。他のクールな子たちは乗っていたし、兄のロジャーはかっこいいバイクを持っていた。ジョーと私はただバイクを手に入れる妄想をしたものだった。すると運命の巡りあわせか、ジョーが自転車でグレン・コーブ通りを渡っているところを車にぶつけられたのだ。彼は、まぁ大丈夫だった。彼が17歳の誕生日に適格となる補償が保険で決着し、その日が来るとジョーは保険金を受け取り、すぐさま私の兄の1200cc Harley バイクを買い取った。

当たりくじを引いたみたいだった。私たちはそのバイクでロングアイランドのあらゆる所へドライブした。私たちがやったことを考えると今も生きていることが驚異だよ。ジョーは座席に立って手を十字に広げたままで町を走った。私たちの知る限り、Harley に裸足で乗ったのはジョーだけだ。ある時など、彼は足をハンドルの上に載せて、まるでリラックスしてテレビを見ているように町を走っていた。口にはタバコ、片手にビール、もう片手には一つかみのロケット花火さ。彼はビールを飲みながら、花火にタバコで火をつけて、Harley で通りすがりの犠牲者に放っていた。

私の大部分はロックンローラーで、グリーザー化していたけれど、心の奥底では作曲家そしてギタープレイヤーになりたかったので、バークリーに進学して音楽の勉強を進めたかった。それはバンドの皆とは相容れなかったのだ、私たちの夢は有名なロックバンドになることだったから。その夢は私にとっては現実的に思えなかった。成功するという考えは私にはとても不可能に思えたからだ。けれどバンドは私に彼らとは異なる願望があるのを知っていたので、旅立ちを祝福してくれたのだろう。

あの小さな町、バンド、奔放な友たちと別れるのは寂しかったが、ジョーとの別れが一番辛かった。でも旅立ちのときなのだと私には分かっていた。

私がバークリーに旅立った頃、ジョーは単にギターを修理するだけでなく、彼の才能を生かしてギターの製造を始めた。私たちは連絡を取り合い、会える時には時間を作った。

私がDLRバンドに加入すると、彼は私の為に何本ものギターを創ってくれた。稲妻ギター、スイスチーズ・ギター、炎ギターの他にも何本か。彼のギター制作は彼の他の事柄へのアプローチに似ていた。洞察力に富み、大げさで、思い付きに見えるが、堂々たる創造力は彼の人格と意図を捕えていた。彼の創ったギターはステージ・ギターとして最適だった。大胆で派手な外見はある意味、彼だけが成し得たものだ。

彼は私が DLR と Whitesnake でよく使ったあのオリジナルの炎ギターを手造りしてくれた。彼が私に創ってくれたギターを当時の私は何年も使ったが、その何本かはパサデナでロスとリハーサルをしている間に機材庫から盗まれてしまった。

彼は自作のギターを“Jem”と呼んでいたが、それは私が Ibanez の私のシグネチャー・ギターを“Jem”と名付けた理由の1つで、彼と彼の作品に注目を集めることを願ったものだ。彼が初期にデザインしてくれたギターは私が Ibanez とデザインした Jem と全く似ていないが、私がギターにモンキーグリップを依頼した最初の人物はジョーだった。

彼はとても変わった画期的な楽器を制作した。今でもいくつか持っているよ。数年前にもジョーは美しい楽器を私に創ってくれた。これらのワイルドな楽器を創るのがジョーの情熱であり、彼は喜びと才覚をもって創っていた。彼の得意分野はアニメタイプのフレームだ。彼はただ十分に電気系統やハンドクラフトその他のことを理解しており、全てにおいて優れていたのさ。

ジョーはいつも彼の画期的な作品で私たちを驚かせていたが、恐らく最もジョー・ディスパーグニーについて類まれなことは、彼の心の広さだろう。彼はただ善良で、楽しく、大らかな男だった。彼はその独特の誠実さで私に欠けたものを満たす手助けをしてくれた。私の人生全てを通して、彼は多大なる助力を惜しまなかった。

ここに座ってこれを書きながら、私たちが共に得た正に驚くべき人生経験全てに対して、深い畏敬の念で一杯だ。共にやったこと、共に行った場所、共に分かち合った秘密。ここに記したのはそのうちのほんの僅かな冒険だ。私たちはお互いを誰よりも分かっていた。そしてまだ辛いけれど、この世でジョーと私が人生を分かち合ったことに感謝してもしきれない想いだ。私は人生で異なる状況、町、時間のなか、多くの良き友人に恵まれている。しかし述べたように、10代を通しての友人には何か違いがある、人生の恵みなのだ。

もし、ジョー・ディスパーグニーとの友情がなければ、ギタープレイヤーのスティーブ・ヴァイIbanez Jem も恐らく今日知られている姿ではなかっただろう。ジョーは私を変えた人物で、私は彼が大好きだったし、今でもそうだ。彼のことを想い、私たちのクレイジーな青春時代を思い出すのが好きだ。そうすると、ある意味では彼がこの世にいたときよりも、彼を私の近くに感じる。

私の親愛なる友人へ捧げる。君という人に、私たちが分かち合った全ての物に、ありがとう。

スティーブ・ヴァイ

2018年6月1日
午後6時57分
ロサンジェルス

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