Stay Together

Green (@ribbon_bear) が毎週好きな音楽ネタを語ります! Since 2011

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 1 SyVy Studio の誕生

2021年の『Flex-able 36th Anniversary』は現在のところ、輸入盤しか発売されていないので、分厚い先生書下ろしのライナーノーツが気になっているファンも多いかも知れません。

先生にとってこの作品に立ち返り、リマスターして当時の音と記憶に浸ることは感慨深いことだったでしょう。

2024年はこのライナーノーツ和訳を複数回に分けてブログ掲載していく予定です。長く続くシリーズになりそうなので、気長にお付き合いください。

 

 

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アルバム概要

このアルバムは Fostex 1/4-inch 8-trackマシンを使用し、15 IPS (Inch Per Second) のスピードでホームスタジオ録音したものだ。83年の4月から11月にかけて録音された多くの音源の1部だ。

世に出すつもりは全くなかったのだが、「いいじゃないか」と思い直したのだ。殆どのレコード会社はこのテの音楽には見向きもしないとわかっていたので、まずは自分で資金を手当てすることにした。だから(皆の想像どおり)これは低予算のプロジェクトとなった。

多様な音楽の集まりなので、『Flex-Able』はぴったりのタイトルだと思った。この音楽はありのまま、NG集やプロダクション的禁止事項も含めて聴いてくれ。ありのままの音を楽しんでもらえたらと思う。私たちは制作時にとびきりの楽しみを味わったのだから。加えて、私には学ぶことが多かった。

訳者注:タイトルが『Flex-Able』になった経緯の詳しい話は下の過去記事で読めます。

staytogether.hateblo.jp

この音楽には私の能力のベストが尽くされている。多くの人が何がしらの理由により、商業的に成功する音楽を書かねばならないと感じて憑りつかれる不安によって妨げられることもなかった。

私にはこの先の仕事について多くのコンセプトがあり、中には商業的に思える音楽もあれば、この世で最も酷い音の周波数が1つに集まったものもある。

待ちきれないだろう?多くのミュージシャン同様に皆を楽しませるのが楽しみだし、私のミッションを楽しんでくれたらと思う。

忘れるな、神と共にあれば何事も可能なのだ。

高校卒業そしてバークリー

1978年に高校を卒業し、私はボストンのバークリー音楽大学に進学した。バークリー在学中にフランク・ザッパに採譜の仕事を始めた。その年の秋に私はバークリーを中退してロングアイランドにある両親の家に戻り、ザッパの仕事に集中しようとした。

20歳の誕生日の翌日、私は荷物をまとめた。このとき、私は東海岸を後にして憧れのロサンゼルスに向かったのだ。

ハリウッドの SyVy スタジオ

ロサンゼルスに遂に引っ越して、私は独立と生を感じていた。いとこのステファニーとマーク・ホロウィッツの家に6週間世話になった。彼らの親切と寛大な受け入れがなければどうなっていたことか。ありがとう!

ハリウッドの中心、サンセット通りとフェアファックス通りの角、1435 北フェアファックス通りにアパートをみつけた。バークリーの友人マーティ・シュワルツと地元から生涯の友人でバークリーでも一緒だったマイク・オブライアンもカリフォルニアに引っ越してきた。私たち3人は同居して大騒ぎが続いた。素晴らしい時間だったよ。

私たちの引っ越しから1年ほど経ったころ、大学で知り合った可愛い女の子で付き合い始めたピア・マイオッコがロスに戻った。彼女の部屋は私たちの部屋の真下だった。当時は知る由もなかったが、この住居が私の恋愛軌道をその後40年以上に渡って決定付けるものとなった。正しい選択をして良かったよ!

素晴らしい年月だったよ、自由な創造、楽しみ、仲間意識、成長を実感した。このアパートはフランク・ザッパの家まで車で5分の距離だった。私は常にフランクを訪ね、採譜の確認をしており、結果的にはそれが彼とのレコーディングとツアーに繋がった。

私がフランクと過ごした時間はおよそ5年だ。1979年バークリー在学中に採譜の仕事を始め、1980年に彼のバンドへ参加し、レコーディング、ツアー、採譜を1983年の冬ごろまで行った。その頃にフランクはツアーを止め、シンクラヴィアという当時最新のデジタル録音ワークステーションを使った実験を始めたのだった。

まだ10代の若さながら、私はレコーディングとエンジニアリングに魅了された。私の最も明確な目標は金を貯めて TEAC の4トラックテープレコーダーを買うことだった。

フランクの仕事をして目標額を貯めると直ぐに購入した。フェアファックス通りのアパートの自分の部屋に全てをセットアップして、SyVy Studio と名付けた。小さな寝室だったが、テープレコーダーがあるのだから、スタジオと呼んで自分の気持ちを高めた。

どんなものでも、全てをレコーディングした。ここで私はエンジニアの腕を磨いたのだ。できればいつか、これら全ての古い録音を取出し、私の最も初期のレコーディングをリリースしてみたい。山ほどの音源がある。

私がカリフォルニアに引っ越した頃の私の心理的/感情的状態は興奮と探求心に満ちていた。しかし、その一方で私の心の裏側には重い不安の雲がかかっていた。

私が SyVy Studio で創って録音した音楽はこの裏側にある暗黒を強く反映していた。音楽には望みのなさが中心に据えられ、全くの絶望が歌詞のメッセージに込められた。それが当時の私の世界の捉え方であり、自分自身の見方でもあった。この種の思考に捉えられていれば、必然的に鬱を引き起こすものだが、確実に私にも起こった。

「魂の暗夜」とタイトルを付けた作品を創った。妥当な名だ。1つもリリースはしていない。私の否定的見解に満ちた思考は、ひとたび私が実在論への解を求め始めると、消え去った。この話は別の機会にまた話そう。

形而上学を扱った The Bodhi Tree 書店をハリウッドで見つけたと言えば十分だろう。その店にはその類の本が無数にあった。心霊術、世界の信仰、カルト、数霊術、東洋神秘主義、UFO、ピラミッド、占星術、菜食主義、明晰夢、変性現実状態、魔術などなどさ。本を手に座って読むと美味しいお茶も出してくれた。

そうしているうちに、多くの助けになる回答を見出した。そして新時代の心霊主義にしばらくの間魅了された。あの書店は聖域だったよ。私に起こった前向きな影響は計り知れないほどだ。あの霊的場所で何時間もあらゆる種類の本を読むのに費やし、私は人生の全く新たな意味や人間の条件(哲学テーマ、人間の心理的性質)を見出したのだ。

(Part 2 へ続く)