『Flex-able 36th Anniversary』ライナーノーツの続きです。
楽しい録音の日々のうち、自分のレコードを出版する夢を思い付いた先生、今のようなインターネットの情報源の無い時代に電話帳1つから情報収集に乗り出します。そして遂には自分の出版社となる SyVy Music を設立します。
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Stucco Blue Studio, Sylmar CA (つづき)
あらゆる種の音を捉えようと、私は手近な人々の声や動物や何でも録音した。まるで自由の爆発に着火したようだった。常識の範囲内であればタブーは無しだ。私にとって創造力が美しく開花した時期だ。時には意識の流れ(訳者注:心理学の概念)メソッドを使って作曲/録音をしたものだ。
この時期からの何時間にも及ぶ数えきれない録音が「永遠の書棚」(訳者注:先生が制作途中のアイデア等を保管している場所の呼称)に並んでいるんだ。おかしなことだが、これらからアルバムをリリースする意図は私自身持っていなかったと思う。ただ色々録音して聴き返したかっただけだ。
曲のアイデアを思い付き、そこから具現化していくプロセスがたまらなく好きだった。
「これを一生続けられたら、自分が聴きたい音楽を録音して、ギターレッスンをやって食べていけたら、人生は成功だ!」
当時は自分に別の運命があるとは思わなかったからね、誰も思わないだろう?
当時の私はフランクの音楽に憑りつかれていたので、私の作曲や録音には彼の影響が大きく出ていた。レコーディングやエンジニアリングやミックスなどもまた学んでいた。
『Flex-able』を編集した最初に、レコーディングがとてもルーズなことに気付いた。当時の私は自分の演奏の良いテイクを録ることにあまりエネルギーを注がず、録音の量に注力していた。
しかしフランクとのレコーディングの4年の歳月を経て、チューニングやタイムの正確さ、音楽として聴こえること、エネルギーを保ち、聴き手に衝撃を与えるために、どれほどの労力が注がれるのかを私は理解した。
自分のレコーディングのサウンドと同様に自分のパフォーマンスもいかに劣っていたのかがわかったのだ。
私はアルバム録音の全てをボツにして、同じ曲を再度レコーディングし始めた。今回は細部に十分な注意をして。
私が自分の全てのレコーディングに鑑識的なほど詳細に拘るようになったのはこの頃が始まりだ。その甲斐はあった、同じ曲の新たなバージョンは飛躍的に良いサウンドになった。しかしながら、私はまだ初心者だった。
あるとき思い付いたのだ、「これをレコード盤にしてみてはどうだ?」と。実際には従来のレーベルに音楽を持込むつもりは全くなかった。
「このテの音楽に興味を示すレーベルなんてあるか?この音楽には商業的なものなんて何もない」と思っていたからだ。それでも私はアルバムになると思うものをまとめ始めた。
そのプロセスを解明するのは面白かった。何しろこれはインターネット、パーソナル・コンピューター、デジタル・レコーディング登場以前のことだ。CDでさえ新しすぎる時代だ。
電話帳だけが唯一の情報源の時代だが、そこには私の必要としていた全ての連絡先があった。まずやってみることにした。
正式なレコード盤を制作するのは私には費用が高すぎたのだが、Eva-Tone という会社を見つけた。彼らは薄くて、曲げやすいビニール盤にモールド成型された渦巻くレコード針の溝を付け、一般的なターンテーブルで再生可能な盤を作っていた。
このフレキシディスク(訳者注:ソノシートのこと)でレコードを製造する計画から、アルバムタイトルを『Flexible』にするアイデアがわいた。そしてそれは『Flex-Able』に発展した。
アルバムのカバーを担当したアーティストが『Flexible』をミススペルして『Flexable』にしたからだ。この大間違いを見て、「Flex と Able の間にハイフンを入れたらどうだろう?ギタープレイのスタイルだけにとどまらず、私そのものについて何かを如実に語っているのでは」と思った。
この一見すると大間違いのスペルが実はスティーブ・ヴァイとして知られる人間の特性を適切に表していた。
フレキシディスクのアイデアは直ぐに終わった。私の音楽を本物のレコード盤にして手に取りたかったので、実現する方法を見つけるつもりだった。
皮肉なことに、このアルバムからの "Attitude Song" は後になって Guitar Player 誌によって Eva-Tone 社製のフレキシ・ディスクでリリースされた。(訳者注:雑誌の付録としてソノシートが付いた)
調べていくと、レコード盤制作を実現する方法がわかった。自分の著作権を守るため、出版社を始める方法を学んだ。これは聞くよりも実際にやってみる方がずっと簡単だった。
そのためには ASCAP (米国作曲家作詞家出版者協会: American Society of Composers, Authors and Publishers) に入会する必要があった。音楽著作権管理団体だ。ロス市内の裁判所に出向き、私の会社を登録する書類を書いて提出した。
社名は私の最初のスタジオ名からとって SyVy Music とした。費用は$12だ。今ではオンラインで手続きできるので、出版社を始めるのはもっと簡単だ。君が音楽家なら、自分の著作権を守るため、自分の出版社を設立する必要がある。
次に、アルバムのパッケージとアートワークが必要だ。私には何の経験もなかったが、電話帳を使って、グラフィック・アーティストやデザイナーの調査を始めた。それから、アルバムをマスターし、製造、パッケージにする方法をレコード盤とカセットテープについて学んだ。
『Flex-Able』制作中の Stucco Blue Studio 内部(スタジオ内部の写真に先生がコメントをつけたもの)
木材の見た目で私が好きなのは、たとえ合板でもバーナーで焼いたものだ。表面に木目が現れ、その上にコート剤を塗れば良い感じの輝きがでる。スタジオ内部の壁面は全てそうした。キャビネットもその木材で作った。全て何本かの釘で組み立てたものだ。
(Part 4 に続く)
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ヴァイ先生がこうして自分の会社を設立して、自分でレコードを制作したのと同様に、サッチも自分の会社を設立して、EP『Joe Satriani』を作っているのですが、両者が当時のミュージシャンとしては珍しく、ほぼ同様に自分の会社を設立をしているのがとても興味深いです。2人はずっと連絡を取り合っていたので、互いに影響を受けていたのでしょうか。
サッチが自分の会社を設立した経緯はこちらの過去記事で。