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Green (@ribbon_bear) が毎週好きな音楽ネタを語ります! Since 2011

アンディ・ティモンズ Part 1 「僕には再び音楽ができるのかもわからなかった」

アンディ・ティモンズが Guitar World 誌がシリーズ掲載しているメンタルヘルスのインタビューに応えました。

www.guitarworld.com

この繊細な話題について、アンディが長年抱えてきた病、向き合い方、思うことなど、誠実に話してくれています。

アンディと同じく、これが誰かの役に立つことを願い、以下に和訳を掲載しました。

長いインタビューですので、2週に分けて掲載します。

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5年生のとき、何人かの女の子が僕に寄って来て言ったんだ、「どうして何でも深刻に取っちゃうの?」とね、多分僕が何かに反応したか落ち込んでいるように見えたのだろう。それを覚えているのは、僕が恥ずかしがりで引っ込み思案だったから。

僕は何が原因にしろ、気分が落ち込んでいると黙り込む時間があった。その歳頃ではそれが鬱だとは認識していなかった。悲しい気持ちで、僕はそれと折り合いをつけ、誰にも相談しなかった。ただ「これが僕でこれが人生なんだ」と思っていた。でもあの頃、人から僕は繊細だと思われていたのは明らかだった。

両親が離婚したのは僕が5歳のときで、父が家に居た記憶は余り無い。父とは人生を通じた長い関係を保ち、結局は同じ町に住み、よく集まった。でも僕の人生で、父と母が一緒でないことを不思議に思った時期が僕の不安定さに影響したんだ。

僕は4人兄弟の末っ子で、独りで過ごすことが多かった。なぜなら母が働きに出て養ってくれたから。他の多くのスーパーヒーローの様な母親と同じく、母は息子の為にすべきことをした。それはつまりフルタイムで働くことで、子供たちはずっと自分たちだけですごした。

兄たちが幼い僕の面倒をみてくれた。ある意味、兄たちが僕の父親代わりで、兄は全員僕のヒーローだった。歳の差が4年ずつで、ブライアンは僕の4歳年上、ジョンは8歳年上、マークは12歳年上。僕が音楽を好きになったのは、兄が皆熱心な音楽ファンで趣味でギターを弾いているから。それが僕を音楽の道に導いたのは疑いない。つまり、僕の人生に大きな男性の影響を与えたのは兄たちで、母からは勤労倫理の影響を受けた。

2007年にブライアンが鬱とアルコール依存で亡くなった。彼をもっと助けられたらよかったのだけど、彼がアルコールの問題を抱えているとは彼の死の1年前に初めて知った。彼は隠していたよ。思い返せば、その兆候はあったと思う。そして「気付かなかったなんて、何てバカだったんだ」と思ったけれど、僕が気付いたときには彼の依存はもう何年も続いていた。

僕は家に行き、彼を「救おう」としていた。依存問題で家族を亡くした人は「彼がそうしたいと思わなければ、君が彼にしてやれることではない」と教えてくれたけれど、僕は受け入れなかった。兄を守れると思ったんだ。兄は暫くはとても頑張ったけれど、結局は再発して亡くなった。

いつも自問しているのだけど、家族でこういうことを相談する家で育っていたら、兄はまだ生きていただろうか?兄が克服するチャンスはあったのだろうか?僕にはわからない。

子供の僕には、ギターと、レコードプレイヤーと、KISSとBeatles とロックンロールがあった。それが僕の基盤であり、慰めだった。当時起こっていた僕の感情的悩みを相談する人はいなかった。音楽が僕の避難場所だった。それは今でも変わらない。

音楽に向き合えば、他の全てのことは消え去るんだ。鬱の状態のときは、ショパンや Beach Boys を聴いていると涙が出た。感情の浄化さ。ギターと音楽はずっと僕にとってそのためにあった。それ無しの人生なんて考えられない。

音楽とは魂を育て、僕たちを実際に結びつけるものなんだ。ジョン・レノンは "There's A Place" を書き、ブライアン・ウィルソンは "In My Room" を書いた。僕はこれらの曲に共感した。彼らの話をしたら、涙がこみ上げてきたよ。

僕の家族は大抵、感情に関することは話し合ってこなかった。何でも楽観的で。母は最善を尽くそうと明らかに悪戦苦闘していた。忙しく働いて、家庭の全てを背負っていた。それでも母が不平を言うことはめったになかった。身を粉にして働いて、万事大丈夫だとしていた。当時はそういう風だった。でもご存じのとおり、物事が内に閉じ込められるのが長ければ長い程、問題は深刻になるんだ。

僕の世代の人間というのは、感情的問題を声に出して話したりしないんだ、弱さを認めることになるから。または少なくとも不名誉とされていた。でも現在では大人として僕はそういったことを話すことを弱さだとは思わない。むしろ、人間らしいし、ありのままで、誠実だと思う。

とても多くの人が悩んでいるんだ、これら非常に一般的でいかにも人間らしい特質をオープンに話し合うべきだ。そうすることで僕らは独りじゃないとわかるんだ。長年経ってから、僕の家族の多数が全く同じ問題を抱えていたと知ったんだ。家族で話をしなかったから、僕は知らなかったんだ。

自分で鬱だと自覚した瞬間があったとは言えない。次第にわかっていったんだ、自分には誰とも話したくない時期があって、内に閉じこもると。89年から93年の Danger Danger の頃を振り返ると、僕らは有名人が経験することの一部を体験できる程度には成功していた。何百万枚もレコードが売れた訳ではないし、外を歩くこともできた。でも数年間はMTVに沢山取り上げられたので、知名度はあった。

ツアーに出ると、毎日違う街を転々とする、全方向から女の子が追いかけてきて、ファンはサインをねだる。そして毎晩何千人もの人々の前でステージに立つんだ。そして、そうした全てのエネルギーと露出の果てに帰宅し、アパートの地下に座り考えるんだ。「今日は何をしよう?」その時さ、僕が重度の鬱に落ち込むのは。

救いを求めるところにまで至って、Danger Danger を去ってからテキサスに移り、精神科医に行った。その医者は僕が経験していた鬱を全て吐露するのを助けてくれた。僕は原因に気付いていなかったけれど、それは僕の人生の主要部分を終えたばかりだったからで、当然のことながら、嘆きの時間が必要だったんだ。

2011年まで話を進めると、僕が本物の助けを必要としていたのは明らかだった。というのは、僕は深い鬱に落ちていて、そこから出られるかどうかもわからなかった。僕はキャリアの大部分を通して耳鳴りに悩まされていたけれど、聴覚過敏という症状も進んでいた、音に対して敏感になるんだ。余りに症状が悪化して、僕は音楽を楽しむことができず、もはや演奏ができなかった。演奏するには、水泳競技者用の耳栓で音を遮断しなくてはならなかった。辛かったよ。

僕はずっと繊細で感情的な子供だった。今でも僕は子供で、自我が音楽の演奏能力に基づいているんだ。音楽は人生を通じての情熱だよ。僕は演奏で知名度を得たんだ。その能力が奪われると、僕はとても深い鬱に落ち込んだ。聴覚問題を解決できるのかもわからず、僕の生涯の天職が危機にあった。僕には再び音楽ができるのかもわからなかった。もしギターを弾けなくなったら、いったい僕は何なんだろう?僕は何をしていけばいい?

とてつもなく暗い時期だった。僕には自殺願望はなかったけれど、考えることはあった。例えば飛行機に乗るとき、「もしこれが墜落しても構わない」というように。人を傷つけたいなんて思ったことはないよ、もちろん。でも僕の生への執着は低かった。でも当時7歳の息子の為にこれを克服しなくてはならないとわかっていた。僕は当時48歳で良い人生を生き、後悔はなかったから、アレックス以外には理由はなかった。僕はこの世に生きていなくてはならない。息子を父の亡い子にしたくはなかった。息子にそんなことはできない。

(Part 2 へ続く)

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アレックス君への想いの箇所を読んで泣けました。ありがとう、アンディに力を与えてくれたアレックス君。今では大学生のアレックス君はメタル・ギターを弾いていて、時折、アンディにギターを教えてもらっているとか。幸せそうで胸が温まります。

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