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Green (@ribbon_bear) が毎週好きな音楽ネタを語ります! Since 2011

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 6 アナログのマスターテープ復元からデジタルへ

Flex-Able』ライナーノーツの最終回です。

先生の中で、自分の過去作品を最新の機器で可能な限り高音質にして再リリースするというプロジェクトが今後進むのかも知れません。

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36th Anniversary Mastering Update

CDを製造するため、アナログのマスターテープからデジタルへの変換は80年代初頭に始まった。当時のコンバーターは私たちにとってはイカしたものだったが、現在のクオリティと比較するとヒドイ代物だ。この変換技術は長年のうちに進化した。

Flex-Able』が25周年を迎えたとき、私は最新のコンバーターでデジタル化し、リマスターしようと決めた。これはデジタルでのリリースのみのためにやったのだ、CDやLPを制作する程の需要はないだろうと思って。

これまでの間、自分の作品全てを最良の手法でデジタル化し、リマスターし、LP/CD/デジタルのフォーマットで再リリースすることを考えてきた。これを書いているのはまだ2020年だが、Flex-Able』を最初の再リリースに選んだのは、デジタル技術が当時から格段に進歩したからだ。

このプロジェクトでのLP製造は『Flex-Able』の(ステレオ・クォーター・インチ)マスターを見つけるところからだった。次に、そのテープをリールマシンにかけられるよう復元した。

Flex-Able』のケースに37年も入っていたアナログテープは、テープ上の酸化物粒子を留める糊が劣化して傷んでいる可能性がある。これは粘着剥離現象と呼ばれ、テープを使用不可にしてしまう。長年の内に糊が水分を吸収し加水分解を起こす。だからテープは冷涼で乾燥した環境で保管する必要がある。

奇妙なことに、粘着剥離現象を起こしたテープを復元する1つの方法は対流式オーブンで(食品乾燥器が最適)51~62度で9~12時間加熱することだ。これにより糊から水分子を除いて一時的な復元ができ、別のテープ又は形式に安全にコピーすることができるし、LPやCDのマスターに使用できる。加熱したテープは大抵数回ほど再生可能だが、その状態によるものの数ヶ月ほどが限度だ。

この36周年リリースのため、ダン・ジョンソンの手でマスターテープを加熱修復し、リストアしてもらい、バーニー・グランドマン自身によってリマスターしてもらった。

www.e-onkyo.com

最後に、変換したこのアルバムの音質について私は大喜びしていると同時に安心したよ。私たちがマスターした複数のフォーマットとは:

1. LP:アナログ・マスター、アナログ・マスター・プロセスによるアナログ・リリース(AAA)
2. CD用デジタル及びデジタル配信:44.1kHz x 16bit
3. デジタル・ハイレゾ:96kHz x 24bit
4. デジタル・ハイレゾ:192kHz x 24bit

今回のリリースについて私が言及するのはこれが最後になるだろう。かくして、この音楽を最新のフォーマットで、最新の機器で可能な限り最高音質に復元するという目的を達成した。この可愛く奇妙なアルバムはそれに値すると信じている。

この音楽に人々が価値を見出したことを嬉しく思う。私の心からの深い感謝をアルバムを手にした君に。我々は良いチームだよ!

 

スティーブ・ヴァイ
2020年9月21日
ロサンゼルス
午後5時45分

 

Queen+アダム・ランバート @ナゴヤドーム 2024.02.07. We Are The Champions!

Queen+アダム・ランバートを前回観たのは2020年1月末だったので、今回はちょうど4年振りの来日公演となる。

2020年2月からコロナ禍が始まり、世界はパンデミックの混乱に陥り、国境は閉鎖され、ライブミュージックは途絶えた。2023年から日本ではやっと国境が開かれ、海外アーティストの来日公演が再開した。

私にとってQALはコロナ禍前、最後に観たスタジアム公演であり、普通の世界の最後のライブミュージックの記憶だ。

2020年2月に渡航先のアメリカのホテルで帰国前にTVをつけると、横浜港に停泊する日本のクルーズ船の乗客の様子がヒステリックに伝えられており、私には何が起きているのかわからず、一抹の不安と共に帰国便へ搭乗したのだった。それから暫くして世界は国境を閉ざし、長いパンデミックの閉鎖世界を迎える。

コロナ禍で変わってしまった世界を生き抜いてきた私にとって、(いや恐らく多くの人にとって)QALはパンデミック終焉の象徴となる公演なのだ。(もちろん、この病との闘いはまだ続くのだが)

ほぼ満席となっているナゴヤドームのスタンド席に座ると、ライト側前方で、視界が開けて見易い。前回はアリーナ席で段差がなく、前に立つ人の身長によっては視界が遮られる状態だったので、段差のあるスタンド席は見易かった。

定時を10分ほど過ぎたところで、場内が暗転し光と音の渦からロジャーやメイ博士が登場し、アダム君も登場。ド派手な衣装で楽しませてくれるアダム君は近年更にパワーアップしている。今回は映画『Watch Men』から飛び出したような、スーパーヒーローのいでたち。

 

そして始まったのは “Radio Ga Ga” !え、もうこの曲?終盤に盛り上がった頃、スタジアムの全員でハンドクラップしたい曲なんだけど。とまどいつつも、サビでのハンドクラップはしておいた。

サウンドのバランスはスタジアムならこういう感じかな、と思う。ただ冒頭数曲ではボーカルやギターにかかるエフェクトが強くて、それは曲のイメージに合わせているのかも知れないけれど、アダム君のボーカルをもっとシンプルに聴かせて欲しいと願った。

“Another One Bites the Dust” もショウの冒頭で早々と登場。ベースが主役の曲だからギター音量が控え目になるのかもだけど、メイ博士のカッティングの音をきちんと聴かせて欲しかったのは前回と同じ。

“Bicycle Race” ではド派手なバイクにアダム君がまたがり、スクリーン向けに様々なパフォーマンスを。スタジアム公演ではカメラに向けてパフォーマンスするというのがエンターテイメントになるのだなぁ、と感心した。

アコギを手にしたメイ博士が花道まで出て来て、オーディエンスに挨拶。

「ナゴヤノミナサン、コンバンハ!マタココニコレテ、トテモウレシイデス。イッショニ、ウタッテクダサイ」

”Love of My Life” のメロディが12弦アコースティックで美しく響き、客席は合唱タイム。ドーム内にはスマホの白いライトが波打って暗い海に光が漂っているよう。終盤にはスクリーンにフレディが登場し、一緒に合唱。ここで涙する人多数。

「日本の人の為に作った曲だよ」、と始まったのはもちろん “Teo Torriatte” 。スクリーンには日本瓦の屋根が印象的な門が映し出されて、そこにメイ博士の映像と日本語の歌詞までながれる。そしてアダム君もバンドも参加して、盛大に歌い上げる!

こういう素に近い歌声のアダム君は高音までクリアで力強く、本当に素晴らしい。最後はオーディエンス全員でアカペラ合唱。この4年間を思ってなぜか涙が浮かんできた瞬間。

スクリーンに登場したのは若き日のロジャーがドラムソロを叩くところ。そのまま今の本人によるソロに続いて、”Under Pressure” へ。

“Tie Your Mother Down” はロックで好きな曲なんだけど、余りにカントリー・アレンジされていて最初わからなかったくらい。博士のギターソロでは存分にあのトーンを味わえて幸せ。

曲が終わるとアダム君によるオーディエンスとのコール&レスポンス。今回のツアーではフレディ版に替えてアダム君でいくのだろうか。(実際には終盤にフレディ版があった)

“I Was Born to Love You” の前にはアダム君から「僕らは本当に日本が大好きだよ」と。この曲はおそらく日本スペシャルということかなと思い、調べてみたら海外ではやっていなかった。日本ではCMにフレディが出演して歌っていたもんねぇ。

ギターソロではステージ上の櫓に登ったメイ博士が小惑星の上に立ち、宇宙空間で演奏しているような演出。この惑星の映像は博士が加工したものと違うかな?確か以前、リュウグウの3D画像をJAXAに送ったりしていたよね?確かその後の研究にも博士が参加していたような… お歳を召してもこれだけ多彩なギターソロを聴かせてくれて、お元気そうで感激。博士は今回、アダム君に負けないくらい衣装替えが多いな。

www.hayabusa2.jaxa.jp

“Is This the World We Created…?”、”A Kind of Magic” は前回聴けなかった曲で嬉しい。アコギの伴奏のみで聴くアダム君の歌唱は感情豊かで、伸びがあり、美しくて、こういう削ぎ落したところで実力が突出しているんだよね。

“Killer Queen” ではうって変わって、ステージの楽屋で鏡に向かうディーバなアダム君のコミカルな演技を歌と共に楽しむ演出で楽しかった。”The Show Must Go On” の歌唱は鳥肌モノで超ドラマチック。

アンコールの “We Will Rock You” が終わるともう次で最後だなぁと思っていたところで “Radio Ga Ga” が始まる!冒頭に演奏されたので残念に思っていたこの曲が最後にもう一度ショート版で演奏されるとは、嬉しい!

盛り上がったオーディエンス総立ちでサビに合わせてハンドクラップする一体感がたまらんよ。メイ博士がジャケットの下にフレディの描かれたTシャツを着ているのも嬉しい。

We Are the Champions” でさあ大トリ。皆でシンガロングして、充実感を味わいながら思い返したのは、この4年間。やっとやっとコロナ禍を経て、私たちは皆生き残ってここに居る。正に “We Are the Champions” ! 困難を乗り越えた私たちのアンセムのよう。

煌めく紙吹雪とメンバーの姿を見つめながら、喜びを噛みしめた夜。2時間超えのマジカルな時間をありがとう、QAL!


本日のセットリスト

01. Machines (Or 'Back to Humans') / Radio Ga Ga
02. Hammer to Fall
03. Another One Bites the Dust
04. I'm in Love With My Car
05. Bicycle Race
06. Fat Bottomed Girls *
07. I Want It All
08. Love of My Life
09. Teo Torriatte (Let Us Cling Together)
10. Drum Solo
11. Under Pressure
12. Tie Your Mother Down
13. Crazy Little Thing Called Love
14. I Was Born to Love You
15. (You Take My Breath Away) / Who Wants to Live Forever
16. Guitar Solo
17. Is This the World We Created…? *
18. A Kind of Magic *
19. Killer Queen
20. Don't Stop Me Now
21. Somebody to Love
22. The Show Must Go On
23. Bohemian Rhapsody
encore: Ay‐Oh Freddie on screen
24. We Will Rock You
25. Radio Ga Ga
26. We Are the Champions

(* は4年前にはやらなかった曲)

 

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 5『Flex-Able』の売上拡大

Flex-able 36th Anniversary』ライナーノーツ続きです。

Flex-Able』の販売は予想を大きく上回り、米国でも更には欧州でも軌道に乗ります。自分の楽しみで制作したアルバムは、権利を保持したまま販売に漕ぎつけたことで、後々に収益を生み、次の創作活動につながりました。

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Light Without Heat

私は会社設立の一部始終を学んだが、それは基本的に何枚かの書類を提出し、比較的良心的な料金を払うことと、毎年税務申告をすることだった。

Light Without Heat という会社の設立登記をした。過去40年間で私は恐らく1ダースほどの会社を設立、運営、売却又は閉鎖してきたが、Light Without Heat は私のローンアウト会社(訳者注:設立者が株主で自身を従業員とする形態で、個人の責任を軽減したり、資産保護や税制上の優遇を受けるといった利益がある)として存続させてきた。このフレーズは「The Uranita Book」という抽象的でエキゾチックな本にインスパイアされたものだ。

そして私は Akashic Records というLWH(Light Without Heat)からの屋号のビジネス体を作った。これは私がアルバムをリリースするときに使う名称だ。私は早まって、この屋号の調査をせずに使い始めてしまい、既にこれが第三者によって商標権が押さえられていることを知った。

社名を変える必要に迫られ、Uranita Records にしたが、私は再び早まってしまい、この名前もまた商標が取られていると知った。このときだ、ユニークな名前を確保するのが難しいとわかったのは。既に Light Without Heat を設立していたので、レーベルもそう呼ぼうと思った。できた!余談だが、これらは私が22歳の頃の出来事だ。

1,000枚のレコードをクリフの Important Records Distributors に販売したおかげで、『Flex-Able』のプロモーションと Stucco Blue スタジオでのレコーディングを続ける十分な資金ができた。

やがてクリフが電話してきて、1,000枚全部が売れたので、もう1,000枚欲しいと言ってきた。その後更に1,000枚の追加があった。これは私にとって素晴らしかった。Enigma Records から提案された前金の1万ドル分の売り上げはとうに超過して、しかも私は『Flex-Able』の権利を持っているのだ。

クリフの注文は続いたので、私は「隠し玉」を様々なプロジェクトに行ったものだ。1,000枚のプリント毎に、LPのラベル・カラーや、原盤スタンパーへの銘刻を変えたりした。

この頃(1983~4年)欧州のレコード配給業者であるコウ・デ・クルー (Co de Kloet) と連絡を取るようになった。コウはフランク・ザッパの友人で、フランクが私たちを繋げたのだ。長年のうちに、コウと私は友人としてとても親しくなり、強力な共同クリエイティブ・チームとなった。多くのことは後ほど、だがコウは私が彼を必要としたときに、いつも側にいたと言えば十分だろう。

Important Records を通じても、欧州の配給業者から良い反応があった。フランク・ザッパの忠実なファン層のおかげで、事は上手く行き始めた。

最初はフランクのファンがレコードを購入してくれたおかげで私は創作活動を継続できた。ところで、欧州でリリースされた『Flex-Able』には4つのバージョンがある。違いは私がマスターに施した微細な編集のみだ。これはハードコアなコレクターの為にやったのさ。全部持っている人はいるかな?

Important Records Distributors によるLPとカセットの再注文はとても順調に継続したが、"The Attitude Song" が Guitar Player 誌で Eva-Tone 社のフレキシ・ディスクとして同封されると一変した。再注文が3千から4千に急増したのだ。

CDが主流になっても、Important Records は『Flex-Able』のCD1枚につき$7.50を支払った。映画『クロスローズ』が公開され、私がDLRバンドに加入すると『Flex-Able』の売り上げは再び上昇した。『Eat 'Em and Smile』のCDが出たときもそうだった。

『Passion and Warfare』がリリースされると『Flex-Able』の売上は再び跳ね上がった。今日でもなお、私はこの可笑しなアルバムを所有しており、今までに恐らく40万枚を売ったと思う。ありがたく思っているよ。

 

関心のある人の為に、以下が『Flex-Able』誕生までの基本的な時系列の流れだ。

01. 小さなレコーディング・スタジオにぴったりの小屋が裏にある家を買う
02. 小屋を改造して防音にし、予算内で「ヴァイ風エキゾチック」な外見にする
03. できる限り機材をかき集める
04. ひたすら多種多様な音楽を作曲して録音する
05. エンジニアリングとミックスを学ぶ
06. レコードをマスターリングして、アートワークを完成させる
07. 工程を管理しながら、LPとカセットを製造する
08. レコード契約を探すも、配給契約を発見する
09. 出版社を始める(SyVy Music)
10. 会社を始める(Light Without Heat)
11. レーベルの屋号を確保する(LWH)
12. アルバムをリリースする

私にとってこのアルバムを制作する上で真の喜びは、制作中に味わった自由とそれが制作された環境によるものだった。

このプロジェクトに参加してくれた全ての人には永遠に感謝している。彼らは時間を割いて創造力で貢献し、サポートと愛を与えてくれた。

Flex-Able』は野心的アーティストがその最も成長を遂げる時期のスナップ・ショットだ。未来への期待による重し無しに、自由に楽しみを持って自分の創造力を探索したのだ。

(Part 6 へ続く)

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欧州の配給業者として、文中に登場したコウ・デ・クルー氏については、以下の過去記事で詳細が語られています。

「私にはオランダにコウ・デ・クルーという友人がいてね、彼はフランク・ザッパの友人でもある。彼は優れた音楽脳を持っていてね、彼のことは創造の触媒と呼んでいるのだよ。彼には様々なものを惹きつけ組み合わせる力がある。彼はかつてレコードの卸業で働いていて、私の『Flex-able』を自国で販売網にのせてくれたんだ。それ以来の友人なんだよ」

(過去記事より抜粋)

staytogether.hateblo.jp

また、コウ氏は「Frank & Co」という書籍も出版しており、序文をドゥイージル・ザッパが書いています。

books.rakuten.co.jp

 

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 4『Flex-Able』の誕生

Flex-able 36th Anniversary』ライナーノーツの続きです。

完成したLPを手にしたヴァイ先生は、次にそれを販売する方法を考えます。そして一般的なレーベルとの契約に納得がいかず、独自の方法を模索します。先生のビジネス脳が常識を打ち破る!

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Flex-Able』の誕生

プレス工場から届いた最初の『Flex-Able』LP1箱を受け取ったときのことは生涯忘れないだろう。それを腕に抱き、甘美な達成の喜びを味わったのだ。遂にできた。全て簡単で楽しかったと思えた。

このLPが私を金持ちで有名にしてくれるなどという妄想じみた期待を全くしていなかったからだと思う。そんなことはあり得ないと思えたし、正直に言って、私には不要だった。

ただLPを手にして、友人や家族に送るだけで興奮した。だが、天には別の計画があったのだ。

これは風変りで奇妙なアルバムで、私のギター超絶技巧愛を反映した数曲、("Attitude Song", "Call it Sleep", "Viv Woman")や、私の作曲愛を反映した曲、("There's Still Something Dead in Here", "Junkie", "Salamanders in the Sun")や、私の可笑しくて奇妙なもの愛を反映した曲、("Little Green Men", "Lovers Are Crazy", "The Boy/Girl Song")などがある。

アルバムは支離滅裂で当時でもいつの時代でも、どんなジャンルにも合わなかった。無論、ザッパの影響を明らかに受けていて、真正直なアルバムだ。

私は選択に向き合った。アルバムを世間には発表せず、今後も自分の楽しみとしてアルバムを制作し、採譜とギターレッスンで生活費を稼いでいくのか、それともこのアルバムをまともにリリースするために少し頑張ってみるのか。

そこで思ったのだ、「いいじゃないか。どうにかリリースしてみたらクールかも知れないし」

最初は一般的なレコード契約を探してみた。数社のレーベルにアルバムを送付したところ、どこも興味を示さなかったが、Enigma Record は違った。彼らは一般的なレコード契約同様に前払い金1万ドルを提示した。当時の私にとっては莫大な金額だ。

Enigma Record はマスターの権利を得、レコード1枚あたり25セントのロイヤルティを私に払うという。しかし、それで彼らは前金を回収するのだ。マーケティングとプロモーションは彼らが責任を持つ。

この契約は私にとって納得いかなかった。彼らにアルバム全ての権利を1万ドルで渡し、レコード1枚あたり25セントのロイヤルティの合計が前金に達するまで追加のロイヤルティは受け取れない。

私が前金分をロイヤルティで払い終わるまで、表面的にはアルバムを無料で彼らに渡すようなものだ!その契約を私の弁護士に見せたところ、レコード業界の仕組みを説明して、それは一般的な契約で、悪いものではないと説明された。

私は何かに利用されることには強い抵抗がある。必死の状況でなければこんな契約に縛られるなんてあり得ない。

少し調べたところ、レコード会社はレコードを販売店に置くため、配給業者にレコードを販売していることがわかった。もし私が直接、配給業者と取引できれば、レコードレーベルとの中間取引を飛び越えられる。

問題は、配給業者は普通、アーティストからのレコードを仕入れず、主にレーベルと取引することだった。

ある運命の日だ、私は Important Records Distributors のクリフ・カルトレリから折り返しの電話を受けた。彼は私の事をフランクと制作したアルバムで知っており、1,000枚のLPを1枚当たり$4.10で買うと言う。

これは素晴らしかった、なぜならLPの製造コストは1枚当たりたったの79セントだったのだ!こちらの方がアーティストにとってフェアな契約に思えた。私はこれが比較的前例の無いことだとは知る由もなかった。

しかしながら、この契約では私が自分のレコード・レーベルを所有する必要があった。それで再び、私は電話帳を取り出して、どう実現するのかを調べた。

もしクリフ・カルトレリが私を信じてサポートをしてくれなかったら、私が自分の為だけに私的な音楽を創り続けていた可能性は全く大きい。

(Part 5 に続く)

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ヴァイ先生の恩人であるクリフ・カルトレリさんについては、こちらの過去記事もどうぞ。

staytogether.hateblo.jp

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 3 SyVy Music の設立

Flex-able 36th Anniversary』ライナーノーツの続きです。

楽しい録音の日々のうち、自分のレコードを出版する夢を思い付いた先生、今のようなインターネットの情報源の無い時代に電話帳1つから情報収集に乗り出します。そして遂には自分の出版社となる SyVy Music を設立します。

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Stucco Blue Studio, Sylmar CA (つづき)

あらゆる種の音を捉えようと、私は手近な人々の声や動物や何でも録音した。まるで自由の爆発に着火したようだった。常識の範囲内であればタブーは無しだ。私にとって創造力が美しく開花した時期だ。時には意識の流れ(訳者注:心理学の概念)メソッドを使って作曲/録音をしたものだ。

この時期からの何時間にも及ぶ数えきれない録音が「永遠の書棚」(訳者注:先生が制作途中のアイデア等を保管している場所の呼称)に並んでいるんだ。おかしなことだが、これらからアルバムをリリースする意図は私自身持っていなかったと思う。ただ色々録音して聴き返したかっただけだ。

曲のアイデアを思い付き、そこから具現化していくプロセスがたまらなく好きだった。

「これを一生続けられたら、自分が聴きたい音楽を録音して、ギターレッスンをやって食べていけたら、人生は成功だ!」

当時は自分に別の運命があるとは思わなかったからね、誰も思わないだろう?

当時の私はフランクの音楽に憑りつかれていたので、私の作曲や録音には彼の影響が大きく出ていた。レコーディングやエンジニアリングやミックスなどもまた学んでいた。

Flex-able』を編集した最初に、レコーディングがとてもルーズなことに気付いた。当時の私は自分の演奏の良いテイクを録ることにあまりエネルギーを注がず、録音の量に注力していた。

しかしフランクとのレコーディングの4年の歳月を経て、チューニングやタイムの正確さ、音楽として聴こえること、エネルギーを保ち、聴き手に衝撃を与えるために、どれほどの労力が注がれるのかを私は理解した。

自分のレコーディングのサウンドと同様に自分のパフォーマンスもいかに劣っていたのかがわかったのだ。

私はアルバム録音の全てをボツにして、同じ曲を再度レコーディングし始めた。今回は細部に十分な注意をして。

私が自分の全てのレコーディングに鑑識的なほど詳細に拘るようになったのはこの頃が始まりだ。その甲斐はあった、同じ曲の新たなバージョンは飛躍的に良いサウンドになった。しかしながら、私はまだ初心者だった。

あるとき思い付いたのだ、「これをレコード盤にしてみてはどうだ?」と。実際には従来のレーベルに音楽を持込むつもりは全くなかった。

「このテの音楽に興味を示すレーベルなんてあるか?この音楽には商業的なものなんて何もない」と思っていたからだ。それでも私はアルバムになると思うものをまとめ始めた。

そのプロセスを解明するのは面白かった。何しろこれはインターネット、パーソナル・コンピューター、デジタル・レコーディング登場以前のことだ。CDでさえ新しすぎる時代だ。

電話帳だけが唯一の情報源の時代だが、そこには私の必要としていた全ての連絡先があった。まずやってみることにした。

正式なレコード盤を制作するのは私には費用が高すぎたのだが、Eva-Tone という会社を見つけた。彼らは薄くて、曲げやすいビニール盤にモールド成型された渦巻くレコード針の溝を付け、一般的なターンテーブルで再生可能な盤を作っていた。

このフレキシディスク(訳者注:ソノシートのこと)でレコードを製造する計画から、アルバムタイトルを『Flexible』にするアイデアがわいた。そしてそれは『Flex-Able』に発展した。

アルバムのカバーを担当したアーティストが『Flexible』をミススペルして『Flexable』にしたからだ。この大間違いを見て、Flex と Able の間にハイフンを入れたらどうだろう?ギタープレイのスタイルだけにとどまらず、私そのものについて何かを如実に語っているのでは」と思った。

この一見すると大間違いのスペルが実はスティーブ・ヴァイとして知られる人間の特性を適切に表していた。

フレキシディスクのアイデアは直ぐに終わった。私の音楽を本物のレコード盤にして手に取りたかったので、実現する方法を見つけるつもりだった。

皮肉なことに、このアルバムからの "Attitude Song" は後になって Guitar Player 誌によって Eva-Tone 社製のフレキシ・ディスクでリリースされた。(訳者注:雑誌の付録としてソノシートが付いた)

調べていくと、レコード盤制作を実現する方法がわかった。自分の著作権を守るため、出版社を始める方法を学んだ。これは聞くよりも実際にやってみる方がずっと簡単だった。

そのためには ASCAP (米国作曲家作詞家出版者協会: American Society of Composers, Authors and Publishers) に入会する必要があった。音楽著作権管理団体だ。ロス市内の裁判所に出向き、私の会社を登録する書類を書いて提出した。

社名は私の最初のスタジオ名からとって SyVy Music とした。費用は$12だ。今ではオンラインで手続きできるので、出版社を始めるのはもっと簡単だ。君が音楽家なら、自分の著作権を守るため、自分の出版社を設立する必要がある。

次に、アルバムのパッケージとアートワークが必要だ。私には何の経験もなかったが、電話帳を使って、グラフィック・アーティストやデザイナーの調査を始めた。それから、アルバムをマスターし、製造、パッケージにする方法をレコード盤とカセットテープについて学んだ。

 

 

Flex-Able』制作中の Stucco Blue Studio 内部(スタジオ内部の写真に先生がコメントをつけたもの)

木材の見た目で私が好きなのは、たとえ合板でもバーナーで焼いたものだ。表面に木目が現れ、その上にコート剤を塗れば良い感じの輝きがでる。スタジオ内部の壁面は全てそうした。キャビネットもその木材で作った。全て何本かの釘で組み立てたものだ。

(Part 4 に続く)

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ヴァイ先生がこうして自分の会社を設立して、自分でレコードを制作したのと同様に、サッチも自分の会社を設立して、EP『Joe Satriani』を作っているのですが、両者が当時のミュージシャンとしては珍しく、ほぼ同様に自分の会社を設立をしているのがとても興味深いです。2人はずっと連絡を取り合っていたので、互いに影響を受けていたのでしょうか。

サッチが自分の会社を設立した経緯はこちらの過去記事で。

staytogether.hateblo.jp

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 2  Stucco Blue Studio の建設

Flex-able 36th Anniversary』ライナーノーツの和訳続きです。

ヴァイ先生はザッパとの仕事で得たお金を元手に住宅を購入し、様々な同居人を迎え入れ、第2のスタジオを手造りします。

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Stucco Blue Studio, Sylmar CA

ハリウッドでフランクの仕事をしていた3年間、私は出来る限りの貯金をしたので、なんと $14,000 を貯めた。これは当時の私にとって莫大な金額だった。その金は全て、カリフォルニアのシルマーにピアが私がフランクと欧州ツアーに出ていた1982年に見つけた家の頭金に当てた。

ハリウッドから車で25分の場所だ。マイク、マーティ、ピア、それから誰か1人を誘って皆がこの家に住んで家賃を払えば、それでローンを支払い、私は無料で住めると考えたのだ。採譜やギターレッスンをすることで多少の必要な金を稼げると考えた。

このときだ、別の親しい友人で素晴らしいベースプレイヤーもカリフォルニアに移住するよう説得できた。彼とはバークリーで出会い、プレイした。彼は私たちと同居しただけでなく、当時私が作った The Classified というバンドでもプレイした。その人物こそ誰でもない、あの名手スチュ・ハムだ。

シルマーのフェロウ通り2264 の家は完璧だった。小さく質素だが、通りの角に面し、そのエリアで十分な広さのある物件だ。ハリウッドよりもずっと田舎で、通りの向こうには馬のいる納屋があり、ピアは時々乗馬していたよ。

家の前の持ち主はレイ・カワル夫妻で、とてもチャーミングな老夫婦だった。レイ爺さんはクールな人で、私たちが住んでいる間に幽霊となって出没したものさ。

レイは家の裏に小屋を建てていた。2部屋から成り、どちらも38平米くらいで、SyVy Studio を発展させるのにぴったりだった。Stucco Blue Studio について気付いたのは、そこで眠るといつも変で明瞭な夢を見ることだった。

いつでもこの家には5人以上が住んでいた。私たちは友としてこの上なく親しかった。彼らが家に住んでいてくれたおかげで、私はギターを弾き、スタジオ建設をしながら、ローンを払うことができた。

「オーディオ百科事典」という本を買ったのだが、それはオーディオとスタジオに関する全てのバイブルだった。この本で勉強して、8ヶ月の時間と $3,000 の費用で私はその小屋を2部屋から成る録音パラダイスに再建した。作業は至福だったよ。

防音のため、基本的には元々の壁の上に装飾壁を作った。青いシルクの布地に凝っていたので、壁を様々な青いシルクの日よけで装飾した。棚や吊り天井、コンソール設置の机など、様々な物を作った。どれも技術や適切なデザインを意識することもない、急ごしらえだ。とにかく釘を打ち付けて壊れないようにしただけだ。

その一方で、私はギターレッスンと採譜の仕事をしていたので、食料を買うことができた。そこでとても幸せだったよ。私にとって初めての本物のスタジオで自分の基地なんだ。

もし私が音楽ビジネスにおいてこれしか得られないとしてもそれで十分だと思った。私には新たな個人的な癒しの避難所でもあった。今までで最も快適で安全、人里を離れ、創造的で、大好きな人々に囲まれていた。小屋を Stucco Blue Studio と命名してあらゆる奇妙な実験を始めた。

スタジオは完成した。だが機材が必要だった。Fostex 1/4-inch 8-track マシンを購入して必要なマルチトラックの環境は整った。Carvin 社がコンソールモニターと X-100B ギターアンプを提供してくれた。フランク・ザッパが際限なく機材を貸してくれたので、レコーディングが可能になった。神よ、彼に祝福を!

この時期を通して私は頻繁に The Bodhi Tree 書店を訪れていた。新たな精神的発見を得ることで、以前に陥っていた鬱の心理状態は完全に消えていった。私の暗い妄想の世界には強力な光が差し込み始めたのだ。

僅かの明瞭な瞬間を得るようになり始め、それは捉えどころのない直感の光と強力な高揚感をもたらした。これは私がハリウッドに住んでいた頃の心理状態とはとても対照的だった。

Stucco Blue で私がレコーディングし始めた音楽は私が引き寄せられていた新たな心情を反映したものとなった。明るく、楽しく、ユーモアに溢れ、深遠な思想に基づくものだった。

当時私は複雑深遠な象形文字を学んでおり、それら多くを音楽とアートに組み込んだ。全てが新しく、興味深く、創造的だった。単に友達を笑わせるためにレコーディングすることもあった。当時を思い返すと、純粋で歓びに溢れたときだった。私は再び、人生を愛し楽しむようになったのだ。

シルマーの家に滞在していった人たち幾人かの名を挙げよう。ピア(私たちはずっと共にいた)、マーティ・シュワルツ、マイク・オブライエン、スコッティ・マシューズ、クリス・フレイザー、スチュ・ハム、ボブとスザンナ・ハリス(スザンナは「Under the Same Moon」という本を書いたが、そこには当時の話も出てくる)、ディ、パムと彼女の家族、ジョン・ロバート、テレーサ、それから数えきれないほどの気ままな音楽難民とその友人たち。

余談だが、Stucco Blue では『Flex-Able』以降の他のプロジェクトの要素もレコーディングされた。Alcatrazz の『Disturbing the Peace』、デイヴ・リー・ロスの『Skyscraper』、それから『Crossroads』『Passion and Warfare』だ。

(Part 3 に続く)

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訳者ひとりごと

20代前半でせっせとお金を貯めて、それを頭金にして自分の家となる不動産を購入、友達を住まわせて家賃をとり、それで住宅ローンを返済しつつ、1から勉強してスタジオを建設というながれは、先生のビジネス脳の良さを垣間見るようです。

様々な滞在者がいたのでしょうけど、家賃の滞納者はいなかったのかな?(ちょっと気になる(笑))

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 1 SyVy Studio の誕生

2021年の『Flex-able 36th Anniversary』は現在のところ、輸入盤しか発売されていないので、分厚い先生書下ろしのライナーノーツが気になっているファンも多いかも知れません。

先生にとってこの作品に立ち返り、リマスターして当時の音と記憶に浸ることは感慨深いことだったでしょう。

2024年はこのライナーノーツ和訳を複数回に分けてブログ掲載していく予定です。長く続くシリーズになりそうなので、気長にお付き合いください。

 

 

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アルバム概要

このアルバムは Fostex 1/4-inch 8-trackマシンを使用し、15 IPS (Inch Per Second) のスピードでホームスタジオ録音したものだ。83年の4月から11月にかけて録音された多くの音源の1部だ。

世に出すつもりは全くなかったのだが、「いいじゃないか」と思い直したのだ。殆どのレコード会社はこのテの音楽には見向きもしないとわかっていたので、まずは自分で資金を手当てすることにした。だから(皆の想像どおり)これは低予算のプロジェクトとなった。

多様な音楽の集まりなので、『Flex-Able』はぴったりのタイトルだと思った。この音楽はありのまま、NG集やプロダクション的禁止事項も含めて聴いてくれ。ありのままの音を楽しんでもらえたらと思う。私たちは制作時にとびきりの楽しみを味わったのだから。加えて、私には学ぶことが多かった。

訳者注:タイトルが『Flex-Able』になった経緯の詳しい話は下の過去記事で読めます。

staytogether.hateblo.jp

この音楽には私の能力のベストが尽くされている。多くの人が何がしらの理由により、商業的に成功する音楽を書かねばならないと感じて憑りつかれる不安によって妨げられることもなかった。

私にはこの先の仕事について多くのコンセプトがあり、中には商業的に思える音楽もあれば、この世で最も酷い音の周波数が1つに集まったものもある。

待ちきれないだろう?多くのミュージシャン同様に皆を楽しませるのが楽しみだし、私のミッションを楽しんでくれたらと思う。

忘れるな、神と共にあれば何事も可能なのだ。

高校卒業そしてバークリー

1978年に高校を卒業し、私はボストンのバークリー音楽大学に進学した。バークリー在学中にフランク・ザッパに採譜の仕事を始めた。その年の秋に私はバークリーを中退してロングアイランドにある両親の家に戻り、ザッパの仕事に集中しようとした。

20歳の誕生日の翌日、私は荷物をまとめた。このとき、私は東海岸を後にして憧れのロサンゼルスに向かったのだ。

ハリウッドの SyVy スタジオ

ロサンゼルスに遂に引っ越して、私は独立と生を感じていた。いとこのステファニーとマーク・ホロウィッツの家に6週間世話になった。彼らの親切と寛大な受け入れがなければどうなっていたことか。ありがとう!

ハリウッドの中心、サンセット通りとフェアファックス通りの角、1435 北フェアファックス通りにアパートをみつけた。バークリーの友人マーティ・シュワルツと地元から生涯の友人でバークリーでも一緒だったマイク・オブライアンもカリフォルニアに引っ越してきた。私たち3人は同居して大騒ぎが続いた。素晴らしい時間だったよ。

私たちの引っ越しから1年ほど経ったころ、大学で知り合った可愛い女の子で付き合い始めたピア・マイオッコがロスに戻った。彼女の部屋は私たちの部屋の真下だった。当時は知る由もなかったが、この住居が私の恋愛軌道をその後40年以上に渡って決定付けるものとなった。正しい選択をして良かったよ!

素晴らしい年月だったよ、自由な創造、楽しみ、仲間意識、成長を実感した。このアパートはフランク・ザッパの家まで車で5分の距離だった。私は常にフランクを訪ね、採譜の確認をしており、結果的にはそれが彼とのレコーディングとツアーに繋がった。

私がフランクと過ごした時間はおよそ5年だ。1979年バークリー在学中に採譜の仕事を始め、1980年に彼のバンドへ参加し、レコーディング、ツアー、採譜を1983年の冬ごろまで行った。その頃にフランクはツアーを止め、シンクラヴィアという当時最新のデジタル録音ワークステーションを使った実験を始めたのだった。

まだ10代の若さながら、私はレコーディングとエンジニアリングに魅了された。私の最も明確な目標は金を貯めて TEAC の4トラックテープレコーダーを買うことだった。

フランクの仕事をして目標額を貯めると直ぐに購入した。フェアファックス通りのアパートの自分の部屋に全てをセットアップして、SyVy Studio と名付けた。小さな寝室だったが、テープレコーダーがあるのだから、スタジオと呼んで自分の気持ちを高めた。

どんなものでも、全てをレコーディングした。ここで私はエンジニアの腕を磨いたのだ。できればいつか、これら全ての古い録音を取出し、私の最も初期のレコーディングをリリースしてみたい。山ほどの音源がある。

私がカリフォルニアに引っ越した頃の私の心理的/感情的状態は興奮と探求心に満ちていた。しかし、その一方で私の心の裏側には重い不安の雲がかかっていた。

私が SyVy Studio で創って録音した音楽はこの裏側にある暗黒を強く反映していた。音楽には望みのなさが中心に据えられ、全くの絶望が歌詞のメッセージに込められた。それが当時の私の世界の捉え方であり、自分自身の見方でもあった。この種の思考に捉えられていれば、必然的に鬱を引き起こすものだが、確実に私にも起こった。

「魂の暗夜」とタイトルを付けた作品を創った。妥当な名だ。1つもリリースはしていない。私の否定的見解に満ちた思考は、ひとたび私が実在論への解を求め始めると、消え去った。この話は別の機会にまた話そう。

形而上学を扱った The Bodhi Tree 書店をハリウッドで見つけたと言えば十分だろう。その店にはその類の本が無数にあった。心霊術、世界の信仰、カルト、数霊術、東洋神秘主義、UFO、ピラミッド、占星術、菜食主義、明晰夢、変性現実状態、魔術などなどさ。本を手に座って読むと美味しいお茶も出してくれた。

そうしているうちに、多くの助けになる回答を見出した。そして新時代の心霊主義にしばらくの間魅了された。あの書店は聖域だったよ。私に起こった前向きな影響は計り知れないほどだ。あの霊的場所で何時間もあらゆる種類の本を読むのに費やし、私は人生の全く新たな意味や人間の条件(哲学テーマ、人間の心理的性質)を見出したのだ。

(Part 2 へ続く)