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Green (@ribbon_bear) が毎週好きな音楽ネタを語ります! Since 2011

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 3 SyVy Music の設立

Flex-able 36th Anniversary』ライナーノーツの続きです。

楽しい録音の日々のうち、自分のレコードを出版する夢を思い付いた先生、今のようなインターネットの情報源の無い時代に電話帳1つから情報収集に乗り出します。そして遂には自分の出版社となる SyVy Music を設立します。

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Stucco Blue Studio, Sylmar CA (つづき)

あらゆる種の音を捉えようと、私は手近な人々の声や動物や何でも録音した。まるで自由の爆発に着火したようだった。常識の範囲内であればタブーは無しだ。私にとって創造力が美しく開花した時期だ。時には意識の流れ(訳者注:心理学の概念)メソッドを使って作曲/録音をしたものだ。

この時期からの何時間にも及ぶ数えきれない録音が「永遠の書棚」(訳者注:先生が制作途中のアイデア等を保管している場所の呼称)に並んでいるんだ。おかしなことだが、これらからアルバムをリリースする意図は私自身持っていなかったと思う。ただ色々録音して聴き返したかっただけだ。

曲のアイデアを思い付き、そこから具現化していくプロセスがたまらなく好きだった。

「これを一生続けられたら、自分が聴きたい音楽を録音して、ギターレッスンをやって食べていけたら、人生は成功だ!」

当時は自分に別の運命があるとは思わなかったからね、誰も思わないだろう?

当時の私はフランクの音楽に憑りつかれていたので、私の作曲や録音には彼の影響が大きく出ていた。レコーディングやエンジニアリングやミックスなどもまた学んでいた。

Flex-able』を編集した最初に、レコーディングがとてもルーズなことに気付いた。当時の私は自分の演奏の良いテイクを録ることにあまりエネルギーを注がず、録音の量に注力していた。

しかしフランクとのレコーディングの4年の歳月を経て、チューニングやタイムの正確さ、音楽として聴こえること、エネルギーを保ち、聴き手に衝撃を与えるために、どれほどの労力が注がれるのかを私は理解した。

自分のレコーディングのサウンドと同様に自分のパフォーマンスもいかに劣っていたのかがわかったのだ。

私はアルバム録音の全てをボツにして、同じ曲を再度レコーディングし始めた。今回は細部に十分な注意をして。

私が自分の全てのレコーディングに鑑識的なほど詳細に拘るようになったのはこの頃が始まりだ。その甲斐はあった、同じ曲の新たなバージョンは飛躍的に良いサウンドになった。しかしながら、私はまだ初心者だった。

あるとき思い付いたのだ、「これをレコード盤にしてみてはどうだ?」と。実際には従来のレーベルに音楽を持込むつもりは全くなかった。

「このテの音楽に興味を示すレーベルなんてあるか?この音楽には商業的なものなんて何もない」と思っていたからだ。それでも私はアルバムになると思うものをまとめ始めた。

そのプロセスを解明するのは面白かった。何しろこれはインターネット、パーソナル・コンピューター、デジタル・レコーディング登場以前のことだ。CDでさえ新しすぎる時代だ。

電話帳だけが唯一の情報源の時代だが、そこには私の必要としていた全ての連絡先があった。まずやってみることにした。

正式なレコード盤を制作するのは私には費用が高すぎたのだが、Eva-Tone という会社を見つけた。彼らは薄くて、曲げやすいビニール盤にモールド成型された渦巻くレコード針の溝を付け、一般的なターンテーブルで再生可能な盤を作っていた。

このフレキシディスク(訳者注:ソノシートのこと)でレコードを製造する計画から、アルバムタイトルを『Flexible』にするアイデアがわいた。そしてそれは『Flex-Able』に発展した。

アルバムのカバーを担当したアーティストが『Flexible』をミススペルして『Flexable』にしたからだ。この大間違いを見て、Flex と Able の間にハイフンを入れたらどうだろう?ギタープレイのスタイルだけにとどまらず、私そのものについて何かを如実に語っているのでは」と思った。

この一見すると大間違いのスペルが実はスティーブ・ヴァイとして知られる人間の特性を適切に表していた。

フレキシディスクのアイデアは直ぐに終わった。私の音楽を本物のレコード盤にして手に取りたかったので、実現する方法を見つけるつもりだった。

皮肉なことに、このアルバムからの "Attitude Song" は後になって Guitar Player 誌によって Eva-Tone 社製のフレキシ・ディスクでリリースされた。(訳者注:雑誌の付録としてソノシートが付いた)

調べていくと、レコード盤制作を実現する方法がわかった。自分の著作権を守るため、出版社を始める方法を学んだ。これは聞くよりも実際にやってみる方がずっと簡単だった。

そのためには ASCAP (米国作曲家作詞家出版者協会: American Society of Composers, Authors and Publishers) に入会する必要があった。音楽著作権管理団体だ。ロス市内の裁判所に出向き、私の会社を登録する書類を書いて提出した。

社名は私の最初のスタジオ名からとって SyVy Music とした。費用は$12だ。今ではオンラインで手続きできるので、出版社を始めるのはもっと簡単だ。君が音楽家なら、自分の著作権を守るため、自分の出版社を設立する必要がある。

次に、アルバムのパッケージとアートワークが必要だ。私には何の経験もなかったが、電話帳を使って、グラフィック・アーティストやデザイナーの調査を始めた。それから、アルバムをマスターし、製造、パッケージにする方法をレコード盤とカセットテープについて学んだ。

 

 

Flex-Able』制作中の Stucco Blue Studio 内部(スタジオ内部の写真に先生がコメントをつけたもの)

木材の見た目で私が好きなのは、たとえ合板でもバーナーで焼いたものだ。表面に木目が現れ、その上にコート剤を塗れば良い感じの輝きがでる。スタジオ内部の壁面は全てそうした。キャビネットもその木材で作った。全て何本かの釘で組み立てたものだ。

(Part 4 に続く)

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ヴァイ先生がこうして自分の会社を設立して、自分でレコードを制作したのと同様に、サッチも自分の会社を設立して、EP『Joe Satriani』を作っているのですが、両者が当時のミュージシャンとしては珍しく、ほぼ同様に自分の会社を設立をしているのがとても興味深いです。2人はずっと連絡を取り合っていたので、互いに影響を受けていたのでしょうか。

サッチが自分の会社を設立した経緯はこちらの過去記事で。

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スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 2  Stucco Blue Studio の建設

Flex-able 36th Anniversary』ライナーノーツの和訳続きです。

ヴァイ先生はザッパとの仕事で得たお金を元手に住宅を購入し、様々な同居人を迎え入れ、第2のスタジオを手造りします。

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Stucco Blue Studio, Sylmar CA

ハリウッドでフランクの仕事をしていた3年間、私は出来る限りの貯金をしたので、なんと $14,000 を貯めた。これは当時の私にとって莫大な金額だった。その金は全て、カリフォルニアのシルマーにピアが私がフランクと欧州ツアーに出ていた1982年に見つけた家の頭金に当てた。

ハリウッドから車で25分の場所だ。マイク、マーティ、ピア、それから誰か1人を誘って皆がこの家に住んで家賃を払えば、それでローンを支払い、私は無料で住めると考えたのだ。採譜やギターレッスンをすることで多少の必要な金を稼げると考えた。

このときだ、別の親しい友人で素晴らしいベースプレイヤーもカリフォルニアに移住するよう説得できた。彼とはバークリーで出会い、プレイした。彼は私たちと同居しただけでなく、当時私が作った The Classified というバンドでもプレイした。その人物こそ誰でもない、あの名手スチュ・ハムだ。

シルマーのフェロウ通り2264 の家は完璧だった。小さく質素だが、通りの角に面し、そのエリアで十分な広さのある物件だ。ハリウッドよりもずっと田舎で、通りの向こうには馬のいる納屋があり、ピアは時々乗馬していたよ。

家の前の持ち主はレイ・カワル夫妻で、とてもチャーミングな老夫婦だった。レイ爺さんはクールな人で、私たちが住んでいる間に幽霊となって出没したものさ。

レイは家の裏に小屋を建てていた。2部屋から成り、どちらも38平米くらいで、SyVy Studio を発展させるのにぴったりだった。Stucco Blue Studio について気付いたのは、そこで眠るといつも変で明瞭な夢を見ることだった。

いつでもこの家には5人以上が住んでいた。私たちは友としてこの上なく親しかった。彼らが家に住んでいてくれたおかげで、私はギターを弾き、スタジオ建設をしながら、ローンを払うことができた。

「オーディオ百科事典」という本を買ったのだが、それはオーディオとスタジオに関する全てのバイブルだった。この本で勉強して、8ヶ月の時間と $3,000 の費用で私はその小屋を2部屋から成る録音パラダイスに再建した。作業は至福だったよ。

防音のため、基本的には元々の壁の上に装飾壁を作った。青いシルクの布地に凝っていたので、壁を様々な青いシルクの日よけで装飾した。棚や吊り天井、コンソール設置の机など、様々な物を作った。どれも技術や適切なデザインを意識することもない、急ごしらえだ。とにかく釘を打ち付けて壊れないようにしただけだ。

その一方で、私はギターレッスンと採譜の仕事をしていたので、食料を買うことができた。そこでとても幸せだったよ。私にとって初めての本物のスタジオで自分の基地なんだ。

もし私が音楽ビジネスにおいてこれしか得られないとしてもそれで十分だと思った。私には新たな個人的な癒しの避難所でもあった。今までで最も快適で安全、人里を離れ、創造的で、大好きな人々に囲まれていた。小屋を Stucco Blue Studio と命名してあらゆる奇妙な実験を始めた。

スタジオは完成した。だが機材が必要だった。Fostex 1/4-inch 8-track マシンを購入して必要なマルチトラックの環境は整った。Carvin 社がコンソールモニターと X-100B ギターアンプを提供してくれた。フランク・ザッパが際限なく機材を貸してくれたので、レコーディングが可能になった。神よ、彼に祝福を!

この時期を通して私は頻繁に The Bodhi Tree 書店を訪れていた。新たな精神的発見を得ることで、以前に陥っていた鬱の心理状態は完全に消えていった。私の暗い妄想の世界には強力な光が差し込み始めたのだ。

僅かの明瞭な瞬間を得るようになり始め、それは捉えどころのない直感の光と強力な高揚感をもたらした。これは私がハリウッドに住んでいた頃の心理状態とはとても対照的だった。

Stucco Blue で私がレコーディングし始めた音楽は私が引き寄せられていた新たな心情を反映したものとなった。明るく、楽しく、ユーモアに溢れ、深遠な思想に基づくものだった。

当時私は複雑深遠な象形文字を学んでおり、それら多くを音楽とアートに組み込んだ。全てが新しく、興味深く、創造的だった。単に友達を笑わせるためにレコーディングすることもあった。当時を思い返すと、純粋で歓びに溢れたときだった。私は再び、人生を愛し楽しむようになったのだ。

シルマーの家に滞在していった人たち幾人かの名を挙げよう。ピア(私たちはずっと共にいた)、マーティ・シュワルツ、マイク・オブライエン、スコッティ・マシューズ、クリス・フレイザー、スチュ・ハム、ボブとスザンナ・ハリス(スザンナは「Under the Same Moon」という本を書いたが、そこには当時の話も出てくる)、ディ、パムと彼女の家族、ジョン・ロバート、テレーサ、それから数えきれないほどの気ままな音楽難民とその友人たち。

余談だが、Stucco Blue では『Flex-Able』以降の他のプロジェクトの要素もレコーディングされた。Alcatrazz の『Disturbing the Peace』、デイヴ・リー・ロスの『Skyscraper』、それから『Crossroads』『Passion and Warfare』だ。

(Part 3 に続く)

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訳者ひとりごと

20代前半でせっせとお金を貯めて、それを頭金にして自分の家となる不動産を購入、友達を住まわせて家賃をとり、それで住宅ローンを返済しつつ、1から勉強してスタジオを建設というながれは、先生のビジネス脳の良さを垣間見るようです。

様々な滞在者がいたのでしょうけど、家賃の滞納者はいなかったのかな?(ちょっと気になる(笑))

スティーブ・ヴァイ Flex-Able 36th Anniversary: Part 1 SyVy Studio の誕生

2021年の『Flex-able 36th Anniversary』は現在のところ、輸入盤しか発売されていないので、分厚い先生書下ろしのライナーノーツが気になっているファンも多いかも知れません。

先生にとってこの作品に立ち返り、リマスターして当時の音と記憶に浸ることは感慨深いことだったでしょう。

2024年はこのライナーノーツ和訳を複数回に分けてブログ掲載していく予定です。長く続くシリーズになりそうなので、気長にお付き合いください。

 

 

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アルバム概要

このアルバムは Fostex 1/4-inch 8-trackマシンを使用し、15 IPS (Inch Per Second) のスピードでホームスタジオ録音したものだ。83年の4月から11月にかけて録音された多くの音源の1部だ。

世に出すつもりは全くなかったのだが、「いいじゃないか」と思い直したのだ。殆どのレコード会社はこのテの音楽には見向きもしないとわかっていたので、まずは自分で資金を手当てすることにした。だから(皆の想像どおり)これは低予算のプロジェクトとなった。

多様な音楽の集まりなので、『Flex-Able』はぴったりのタイトルだと思った。この音楽はありのまま、NG集やプロダクション的禁止事項も含めて聴いてくれ。ありのままの音を楽しんでもらえたらと思う。私たちは制作時にとびきりの楽しみを味わったのだから。加えて、私には学ぶことが多かった。

訳者注:タイトルが『Flex-Able』になった経緯の詳しい話は下の過去記事で読めます。

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この音楽には私の能力のベストが尽くされている。多くの人が何がしらの理由により、商業的に成功する音楽を書かねばならないと感じて憑りつかれる不安によって妨げられることもなかった。

私にはこの先の仕事について多くのコンセプトがあり、中には商業的に思える音楽もあれば、この世で最も酷い音の周波数が1つに集まったものもある。

待ちきれないだろう?多くのミュージシャン同様に皆を楽しませるのが楽しみだし、私のミッションを楽しんでくれたらと思う。

忘れるな、神と共にあれば何事も可能なのだ。

高校卒業そしてバークリー

1978年に高校を卒業し、私はボストンのバークリー音楽大学に進学した。バークリー在学中にフランク・ザッパに採譜の仕事を始めた。その年の秋に私はバークリーを中退してロングアイランドにある両親の家に戻り、ザッパの仕事に集中しようとした。

20歳の誕生日の翌日、私は荷物をまとめた。このとき、私は東海岸を後にして憧れのロサンゼルスに向かったのだ。

ハリウッドの SyVy スタジオ

ロサンゼルスに遂に引っ越して、私は独立と生を感じていた。いとこのステファニーとマーク・ホロウィッツの家に6週間世話になった。彼らの親切と寛大な受け入れがなければどうなっていたことか。ありがとう!

ハリウッドの中心、サンセット通りとフェアファックス通りの角、1435 北フェアファックス通りにアパートをみつけた。バークリーの友人マーティ・シュワルツと地元から生涯の友人でバークリーでも一緒だったマイク・オブライアンもカリフォルニアに引っ越してきた。私たち3人は同居して大騒ぎが続いた。素晴らしい時間だったよ。

私たちの引っ越しから1年ほど経ったころ、大学で知り合った可愛い女の子で付き合い始めたピア・マイオッコがロスに戻った。彼女の部屋は私たちの部屋の真下だった。当時は知る由もなかったが、この住居が私の恋愛軌道をその後40年以上に渡って決定付けるものとなった。正しい選択をして良かったよ!

素晴らしい年月だったよ、自由な創造、楽しみ、仲間意識、成長を実感した。このアパートはフランク・ザッパの家まで車で5分の距離だった。私は常にフランクを訪ね、採譜の確認をしており、結果的にはそれが彼とのレコーディングとツアーに繋がった。

私がフランクと過ごした時間はおよそ5年だ。1979年バークリー在学中に採譜の仕事を始め、1980年に彼のバンドへ参加し、レコーディング、ツアー、採譜を1983年の冬ごろまで行った。その頃にフランクはツアーを止め、シンクラヴィアという当時最新のデジタル録音ワークステーションを使った実験を始めたのだった。

まだ10代の若さながら、私はレコーディングとエンジニアリングに魅了された。私の最も明確な目標は金を貯めて TEAC の4トラックテープレコーダーを買うことだった。

フランクの仕事をして目標額を貯めると直ぐに購入した。フェアファックス通りのアパートの自分の部屋に全てをセットアップして、SyVy Studio と名付けた。小さな寝室だったが、テープレコーダーがあるのだから、スタジオと呼んで自分の気持ちを高めた。

どんなものでも、全てをレコーディングした。ここで私はエンジニアの腕を磨いたのだ。できればいつか、これら全ての古い録音を取出し、私の最も初期のレコーディングをリリースしてみたい。山ほどの音源がある。

私がカリフォルニアに引っ越した頃の私の心理的/感情的状態は興奮と探求心に満ちていた。しかし、その一方で私の心の裏側には重い不安の雲がかかっていた。

私が SyVy Studio で創って録音した音楽はこの裏側にある暗黒を強く反映していた。音楽には望みのなさが中心に据えられ、全くの絶望が歌詞のメッセージに込められた。それが当時の私の世界の捉え方であり、自分自身の見方でもあった。この種の思考に捉えられていれば、必然的に鬱を引き起こすものだが、確実に私にも起こった。

「魂の暗夜」とタイトルを付けた作品を創った。妥当な名だ。1つもリリースはしていない。私の否定的見解に満ちた思考は、ひとたび私が実在論への解を求め始めると、消え去った。この話は別の機会にまた話そう。

形而上学を扱った The Bodhi Tree 書店をハリウッドで見つけたと言えば十分だろう。その店にはその類の本が無数にあった。心霊術、世界の信仰、カルト、数霊術、東洋神秘主義、UFO、ピラミッド、占星術、菜食主義、明晰夢、変性現実状態、魔術などなどさ。本を手に座って読むと美味しいお茶も出してくれた。

そうしているうちに、多くの助けになる回答を見出した。そして新時代の心霊主義にしばらくの間魅了された。あの書店は聖域だったよ。私に起こった前向きな影響は計り知れないほどだ。あの霊的場所で何時間もあらゆる種類の本を読むのに費やし、私は人生の全く新たな意味や人間の条件(哲学テーマ、人間の心理的性質)を見出したのだ。

(Part 2 へ続く)



2023年のライブを振り返る

今年も当ブログにお付き合いいただきましてありがとうございました。今年はパンデミック後、初めて海外アーティストの来日公演が本格的に回復した年となりました。

20年から3年もライブがほぼ途絶えた世界だったんですね、その反動で今年は大物アーティストの来日が多数、集中的に発生して、音楽ファンには歓喜の中、経済的負担がのしかかる楽しくも辛い1年だったかも。(笑)

個人的にはヴァイ先生の単独来日公演が今年最大のイベントでしたので、それ以外は名古屋公演があったものを主に参加しました。

2023年 参加ライブ

02月 The Aristocrats
04月 Animals As Leaders
05月 Dream Theater
07月 TOTO, MR.BIG
09月 Winger, Dizzy Mizz Lizzy, Extreme
10月 Steve Vai, Tedeschi Trucks Band
11月 The Winery Dogs
12月 Hiromi's Sonicwonder

2023年 ベストライブ

No.3 Winger/ The Winery Dogs (同順位)

甲乙付けがたいということで同率3位です。どちらのバンドも演奏力は半端ないバンドなので、久しぶりに高いミュージシャンシップを味わえてライブの醍醐味を堪能しました。

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No.2 Extreme

彼らのライブは何度か観ていたのですが、新譜を出してからのライブは初。新曲がセトリに多く入って新鮮でした。ライブならではの演出も考えられていて、楽しめました。音がもう少し良ければ満足度120%。

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No.1 Steve Vai

今までで最高のギターサウンドを聴かせてくれたかも。ギターでこれだけ多彩なサウンドを操り、至高のパフォーマンスを披露したステージは正に圧巻。Generation Axe とは違ってフルショウで新曲や名曲の数々をたっぷり聴けて、やはり単独公演が一番嬉しいかも。どうかまた来日して欲しい。

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ベスト3からは漏れましたが、ミュージシャンシップの素晴らしさに感激したライブを挙げると、TOTO, Dizzy Mizz Lizzy, Tedeschi Trucks Band, Hiromi's Sonicwonder もでした。全て良いライブだったなあ。

円安や物価高で来日アーティストのチケット価格が高騰している中、驚きのお値段で高パフォーマンスだったのが、Animals As Leaders。良いもの観れました。

来年も良いライブにめぐり合えますように。

 

 

スティーブ・ヴァイ 90年代の手書きスコアや仕事メモ等

今年のヴァイ先生日本公演時に行われた有料イベント Evo Experience ではコアなヴァイ・ファンの方々に会うことができました。その時に私が持参してご興味のある方に見て頂いた、ヴァイ先生直筆の書類等があります。

これらはヴァイ先生がチャリティーオークションに出品した物品の落札品で、中にはなかなかに興味深いものがあったので持参しました。

チャリティーオークションの詳細はこの過去記事で。

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今週は当日持参した書類の中から数点を選んでブログに掲載したいと思います。

1.手書きスコア "All About Eve"

 

2.プロジェクト

プロジェクト 

1)Cves レコード
2)ウェブページ・ワーク
3)ALS VAMP CD
4)Fire Garden Vamp CD
5) Flex-able Leftovers
6)X-mas レコード
7)レーベルの立ち上げ
8)The 7th Song
9)ALS インターアクティブ
10)ギターレッスン本とCD インターアクティブ
11)Fire Conya book

1990年代半ばごろに抱えていたプロジェクトを挙げたメモでしょうか。
Flex-able Leftovers』は1998年、『7th Song』は2000年、『Merry Axemas』は2005年ですので、10年近くにわたる仕事メモのようです。レーベルを立ち上げたり相当にお忙しかったことと思われます。

 

3.To Do リスト

スコアを仕上げる
スコア "(For The) Love (of) God", "Answers"
全てのパートをまとめ、覚える

All About Eve
Brothers
(Little) Alligator 
  for Japan

この部分は別のメモで「日本のラジオ・ショウ用にアカペラ」との記述もありました。当時どんな計画があったのか大変興味深いです。

クルーをまとめること―スコッティ
MI(Musicians Institute のこと)用セットリスト
DAT スタジオを造る
衣装を作る
Versace プレス・キット
フォト・ブック
Hard Rock 用セットリスト
G3用セットリスト
バックドロップ
アルバム・アート用ウェブページ
G3 ウェブ公開
機材をまとめる
CDのプレイアロング
Fire Garden ギターブック用ビデオ(アートワーク等)

『Fire Garden』ツアー前の仕事メモでしょうか。G3もあって大変忙しそうです。

 

4.1996年2月のカレンダー

カレンダーには曲名が矢印付きでびっしりと書かれています。レコーディングのスケジュールを書いていたのでしょうか?
画像はアップしていませんが、他にも多くのカレンダーが残されており、身近な人の誕生日や日々のスケジュールが書き残されています。

 

5.スタジオ・ログ

1999年『The Ultra Zone』収録の "Asian Sky" は日本のトップ・アーティスト B'z 参加でした。ここでは「Beezz」と書かれています。
B'z 2人のパートは 「Tak solo」「Tak Rhythm」「Koshi Comp」「Koshi Lead」「Koshi B Section」と書かれています。

 

6.選曲メモ

2002年『The Elusive Light And Sound Vol.1』のトラックリストを書いたものでしょうか?映画のタイトルと収録の曲名とタイムが書かれており、中には未収録のものも。
『Crossroads』のタイトルを見るとワクワクしますね。

ジョー・サトリアーニ Part 2 「スティーブとは2曲を制作する予定だ」

先週に引き続き、サッチがオリジナルG3ツアーやヴァイ先生とのツアーについて答えたインタビューを和訳しました。

www.guitarworld.com

仕事の早いサッチは既に先生との共作曲を書いている模様です。

以前のインタビューで読みましたが、少年時代のサッチと先生は、サッチの運転する中古のホルクスワーゲンだったかに乗って、学校近くの空き地に行き、広がる空地を眺めながら、長い間お互いの夢や思いを語り合ったそうです。そんな情景が曲になるのかと思うと胸キュンです。

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オリジナルのG3も復活しますね、最初のラインナップ復活は何がきっかけですか?

(G3は)私にとって真のターニングポイントだった。エリックとスティーブが乗り気なのが嬉しいよ。最初は主流から外れたアイデアだったけど、ツアー計画を話し合ったとき、12人のギタープレイヤーのアイデアから7人まで減らして、「でもこれでは会場の制限時刻までに終われっこない」となって、私たちの3人に落ち着いたんだ。

3がクールな数字というだけでなく、興行管理が可能で、私たちが必要とする各自45分のパフォーマンス時間を確保できる。それが他のプレイヤーを誘うのに重要な要素だった。共演者同士のジャムパートに突入するまえに十分な自分の時間を得たと感じる必要がある。

そして、今回全てを私の息子がドキュメンタリー制作しようとしている。感慨深いよ、私が彼を始めてツアーに連れて行ったのはオリジナルのG3ツアーだったから。それで彼は自分の父親がしていることを初めて知ったんだ。彼の視点からはどんな作品になるのか、楽しみにしている。

そして驚くことに、スティーブ・ヴァイとのツアーもあります。

ティーブとは子供の頃からの付き合いだ。ずっと友人というだけでなく、同じくらいの時間をギタープレイに費やしてきた。(ロングアイランドの故郷)カールプレイスで育った頃に戻って、私たちが一緒にギターをプレイしたいと思うのは自然なことだよ。お互い揃っても羽目を外さないように気を付けるなんてことにはならないだろうね。(笑)

新曲の制作をしているとか?

お互いにどんなことをするのか楽しみだよ。大きなプロジェクトになる可能性もあるけど、私たちが最初に聴いた数秒から考えつくものになるのかも。

ティーブとやるのは最高さ、ちょうど昨日彼と少し話したんだ。2曲を制作する予定だけど、彼にはまだ聴かせていない。彼に私がどんなものを書いたのか説明しようとしたのさ、そのテーマというのは私たちが青春を過ごした故郷で車に乗って出かけていた場所に戻るというものだ。

とにかく、私たちは曲を制作するが、互いにツアーに出ているので、一緒にスタジオに入るという伝統的なセッションはできない。リモートでやって、それはいいんだ。ホテルの部屋でレコーディングしたトラックを後で合わせるのは良くあることだから。この2曲はとてもエキサイティングだよ、テーマが個人的な心に迫るものだから。

多くの企画がありますが、ギアは豊富にありそうですね。新たなギアで使用するものは?

過去数年のアレックスとデイヴの件、そして今度はマイク、サム、ジェイソンとの件は本当にクレイジーだよ。

多くのギアを私のスタジオに入れては速攻で撤収した。幸運なことに、私は自分のシグネチャーの Marshall アンプヘッド(JVM410HJS)に満足している。いつでもそこに立ち返り、自分の持ち曲の全てを良いサウンドでプレイできる。何か新たなことをする招待を受けたときにはいつも、(従来の)自分のサウンドと機材のセットアップがいかにパーソナルなものかに気付くよ。

どうやるのでしょう?

まあ、それが私が Fender のアンプを20ほど持っている理由さ。新しいアンプを全て試すんだ。その中で最も長く私の手元に残っているのは68年製 Fender Custom で、これは成功さ。サウンドが気に入っているし、スタジオで役に立つんだ。Fender Champ/Delux で生み出された偉大な音楽のことを考えると興奮するよ。

その一方で、私は5150シリーズが好きなんだ。オリジナルの5150は大好きさ。 Chickenfoot のアルバムで使用している。新しい 5150 Ⅲ は凄いよ、これが製作された対象の音楽というのは私がプレイしないタイプのものだけどね。でも私があの音楽をプレイできると信じたなら、「これは最高のアンプだ」と言うだろうね。

ギタリストは皆、(アンプは)アナログかデジタルかについて悩んでいると思う。実用レベルではそれが最大の争点だ。世界をツアーで飛び回る中で、重量とサイズをいかにして縮小するかを考えている。だがまだ多くのギグではアンプにプラグインしている。

今はエンドーズ契約をする予定はないけれど、きっとどこかに頭脳とスタミナを持ち合わせ楽器販売業界を納得させられる人がいると信じているよ。私たちのような、朝6時にハワード・スターン・ショウでプレイしろと電話を受けた者が史上最高のギタープレイヤーの印象を損なわないベストなプレイができるように。

(記事終り)

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サッチの息子のZZがG3のドキュメンタリーを制作しているというのも楽しみです。

最近ヌーノが受けたインタビューで、彼はZZによるG3ドキュメンタリーの取材を受けたと話しています。どうやらG3参加ギタリストだけでなく、現代のトップギタリストたちの取材もしているようですね。

ジョー・サトリアーニ Part 1 「自分のリグでは Van Halen はとてもプレイできないとわかっている」

11月14日にハワード・スターンの番組でThe Best of All Worlds ツアーの発表を行い、ビッグニュースが絶えないサッチが、 Guitar World の取材に応えました。

www.guitarworld.com

The Best of All Worlds ツアーについて、オリジナルG3ツアーやヴァイ先生とのツアーについて答えた記事から、今週は Van Halenサウンドについて大いに語った前半を以下に和訳してみました。

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The Best of All Worlds ツアーの準備はどんな心境なのでしょう?

いきなり「これをいったいどうやったら習得できるんだ?」と考えるのはくじけそうな気分さ。サミーには「契約分のアート作品を描き終えるまでは準備できない」(訳者注:サッチは画廊と契約して、アート作品を制作していました)と説明したのだけど、マイクとサミーから延々と変更されるセットリストを渡されて、数日ほど確認する時間があった。彼らはあれらの曲を演奏することに興奮が止まなかったよ。

それに追いつくのは大変でしたか?

「その曲はプレイしたことがない、まだ覚えていない」とずっと言い続けていたよ。同様にハワード・スターンにも説明した。Van Halen が登場して大ファンになってから、もしそのプレイを覚えたら、自分のプレイに入り込むだろうとわかっていた。

だから88年頃に私は意識的にそのプレイを解析するのを止めたんだ。曲を弾いて楽しんだけれども、エディがそこで何をしていたのかを分析することはなかった。

ところが、数年前にアレックスとデイヴから(VHトリビュートの誘いの)電話があり、自分はどの曲もプレイの仕方がわからないことに気付いた。それを彼らに説明し、3~4週ごとに彼らに電話して「できないよ、すまない、私は適任じゃない」と言い続けたんだ。もっと適任な人が沢山いるというのに、彼らは「いや、あんたが適任だ」と言うばかりだった。

それはロス期の楽曲で、今やサミー期の曲もですよね。

異常だよ、自分の守備範囲外のことなら、パートを覚えるのもやっかいだろう。「どうやるんだ?私の守備範囲じゃない」となる。それでたっぷりの言い訳を用意して「台無しにしてしまうよ」と言ったのだけど、結局は楽しい経験になるだろう。夏のツアーが始まる前には何とかするよ。

 

そして重要な要素はエディのリズムプレイです。ソロは(曲の)1部ですから。この複雑なリズムにどのようにアプローチしますか?

有難いことに、曲が発表されて長いため記録が沢山残っている。レコードから私が聴きとれない音符も譜面やTAB譜が助けになる。

でも幾つかの曲、例えば "I'm the One" ではエディはバンドが入る10クリック前にスタートするのに、彼らは何とか合わせてしまう。彼らは高度に発達したリズムセンスを共有しており、全てのサウンドを楽しく聴かせながらタイムを合わせてプレイできるんだ。

でもこれをプレイするとなると、似たスキルを持ち上手くプレイできる人はいるよ、彼らの得意分野で自然にできるんだ。

私がこれに向き合ったとき、デイヴとアレックスに言ったのは、私はもう何十年もメロディをプレイしてきたから、ポケットの後ろに座ってきたということだ。メロディを効かせるためには退いて、バンドがグルーヴとリズムギターでお膳立てをさせないといけない。

ところが急に私はエディの書いた、彼が異なる機能を果たしていたパートを弾かねばならなくなった。彼は驚くべきコードワークの構築をプレイしている。"5150" などではサミーがメロディを歌うべく退いていた。つまり、私にとって最も奇妙なことは、急にメロディを弾かずビートの先頭に立って弾くことだ。エディがやったとき、決して前のめりに聴こえることはなかった。

あなたには独自のトーンとスタイルがあります。あなたがエディのパートを弾くかどうかに関わらず、ファンもそれを聴くことを期待するでしょう。そうでいながら、エディのサウンドに聴こえることも望まれるでしょう。どう対処しますか?

いい質問だ。先日2つの番組への出演を終えてから、私が盛大に失敗したということを脇に置いて、もちろん失敗したことは悩みのタネさ、でも立ち直るよ。

ともかくわかったことは、これが私にとってメンタルな案件であるということさ。そしてこれは私がかつて Deep Purple でプレイしたときに経験したものだ。"Smoke on the Water" をプレイして、自分のギターがリッチー・ブラックモアとは違うサウンドだという精神的苦悩を体験した。

頭の中の声でずっと繰り返されるんだ「そうじゃない、マーシャルとストラトじゃないと」って。でも私が使ったのはもっとゲインの高いもので、Boss DS-1 を100wの Marshall ヘッドに繋いでいた。リッチー・ブラックモアとは違う。

私のプレイに影響したよ。「構わない、音符とフレージングなんだ」と言い聞かせてみても、ファンとしてみれば、正しい(リッチーの)サウンドが聴きたかったから。

そして私の培ってきた考えでは、(オリジナルの)サウンドに敬意を払いたいが同時に、他人のサウンドに同化して個性を失いたくない。

おかしなことに、私は昨夜サミーとマイクとメッセージをやり取りしていて、1つ質問したんだ。「皆の意見では、ライブで最も成功したエディのリグは何だった?」彼らはエディと何年もツアーしていて、彼が色々試すのを見てきたのだから、興味があった。

彼らの共通意見は?

難しいよ。『Live Without a Net』のビデオを観たけど、エディは Marshall や Eventide、パワーアンプやらを使っていて魅力があった。粗い程でもなくコーラスはかけてあった。彼が新たなギアに移って、より良いサウンドになる曲がある一方で、古いギアでの方がしっくりくる曲があった。エディは刷新する過程できっと悩んでいたと思う。

『Live Without a Net』と93年の『Live: Right Here, Right Now』と15年の『Tokyo Dome Live in Concert』の違いは目を見張るものがある。まるで、ギターはどんなサウンドにすべきかについて異なる思想があるようさ。東京のライブでは、かつてないほどにエディはゲインを上げていて、コンプレスされている。EVH 5150 Ⅲ のゲイン構造からすれば理に適っている。

彼がそこに移行したことに完全な敬意を持っているよ。"Mean Street" のイントロをやるのにきっと大変な苦労をしたことだろう。私がハワード・スターンの番組でやったように「ゲインが高すぎる」というのを彼も経験したと思う。

ミドルレンジでゲインのピークを得たい、そうすればハーモニクスを大きく出せるからね。けれど一歩間違えると、表面ノイズが大きすぎる。でもそれを朝の6時(訳者注:今回の番組の収録時間)に試して対応するには「それは難しい」となるのさ。

 

あの番組で見たギアがツアーにも登場するのでしょうか?

私が使用したのは Fender Tone Master Pro (アンプモデラー&マルチエフェクター)だ。(何が良いか)わからなかったんだ。私の通常のライブ用リグは、12フレットより上の1弦でプレイできて、同時に全てファットなサウンドになるようデザインされているから合わない。自分のリグでは Van Halen はとてもプレイできないとわかっている。全く別物のサウンドだからだ。

でも私は EVH 5150 Ⅲ アンプは所有していて、これはボリュームを絞って使うのは難しい。それで Fender Tone Master Pro に行きついて、5150 Ⅲ モデルを見つけ、「素晴らしい、本物のアンプみたいだ」となったのさ。

ところが、高音弦で弾こうとすると「何が起こったんだ?」となる。なぜなら、まるで誰かが急にファットゲインのノブを6目盛りも落としたみたいなサウンドになるんだ。訳が分からない。モデリング・アンプの仕組みとハイゲインものを正しく出せない理由がわからない。

でもともかく、あれはラジオ局の収録だったから、低ボリュームで使えるリグを使う必要があった。デジタル変換された音の中でミドルレンジを狙う必要があった。

どの曲に取り組むのが楽しみですか?

"The Seventh Seal" のような曲をプレイするのが楽しみだね。ここではエディが壮大でシネマチックな作曲アプローチをしている。素晴らしいグルーヴがあり、ゴージャスなギターサウンドもある。それをプレイしようとすると、"5150" をプレイするときと同様に、自分の指を見て「ワォ、これは美しい」と言うのさ。

聴くのとはまた違って、彼らの曲をプレイするとこう思う。「最高に楽しい、エディがこれを弾いて楽しんだのは当然だ」エディが包括的リズムとメロディック・ギターのパートで成し遂げたことはただただ凄い。だから、プレイするのを楽しみにしている。もちろん、"Panama" や "Ain't Talkin' 'Bout Love" もプレイしたい。

(Part 2 に続く)

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